豊臣秀吉の隠居所であった、桃山の指月城の跡へ
父の日参観が行われた6月20日の午後、宇治市と京都市との境にある、
桃山は観月橋団地の真ん中に現れた、(豊臣秀吉が隠居所として造ったという)
指月城の遺跡説明会に行ってきました。
行って来たと言っても、帰り道に時間を合わせただけのことなのですが、
これが、国道24号線からわずか100メートルほど入ったところにあったとは・・・。
この発見までは、この城の存在は否定的な意見が大勢を占めていたのです。
そのため、余計、考古学ファンの関心を呼んだようでした。
現地説明会は午後1時30分からですが、私が車を入れようとしている
御香宮神社の駐車場が満車になると困るので、1時ジャストには到着しました。
ここからは歩いて現地へ向かいます。今日に限っては、看板を掲げた案内人も
出ておられます。おられなくても、現地へ向かうそれらしき人々の流れに付いていけば
勝手に到着できたでしょう。
到着したのは、1時20分にも達していなかったと思いますが、予想に反して
長蛇の列、物凄いという形容詞が当てはまるほどです。この5・6年、豊臣秀吉に
関する遺跡の発掘の成果が顕著(京都は上京区の聚楽第の石垣や、地元は宇治橋東詰の太閤堤の発見)
ですが、それらの時の説明会とは比較できないほどのファンの数です。
結局のところ、現場に入るのに小一時間待たされました。
出てきたのは、石垣の基礎である巨石やその石組み、豊臣家の五七の桐の紋だけでなく
太閤好みの黄金の跡がはっきり残る屋根瓦など。これらの様子は、各新聞を賑わせましたので、
詳細はそちらの方へ・・・。
贅を尽くしたであろうこの指月城、慶長の大地震で崩壊し、お側付きの美女たちが
多数圧死したばかりでなく、時の権力者、豊臣秀吉も命からがら逃げだしたと
言われています。住時の様子をイメージし、地震の恐ろしさを再認識しつつ、帰途についたのでした。
現地説明会資料より掲載
園長
2015年6月22日 12:07 PM | カテゴリー:幼稚園からのご連絡 | 投稿者名:フリー