今まで楽しかったね

朝の自由時間のこと、人工芝やサッカースタジアムで子どもたちが安全に遊べるように見守ってくださっている真柴先生が、子どもたちに人気の遊具に異変を感じて教えてくださいました。

以前、太鼓橋としてサーキットでも使用していた遊具ですが、使用時に定員オーバーで使用してしまったがために変形してしまったものを、まだ利用価値があったので、運転士の渡辺さんがジャングルジムと合体させて複合型遊具へと再利用できるようにしてくださっていた遊具です。

 

 

 

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残念ながら、経年疲労でしょうか、力学的に同じ箇所へかかる力が大きかったのでしょう、中央の支え部分が腐食していましたのですぐに撤去いたしました。

園内の全ての遊具には担当者がいるので様子を聞いたところ、点検時にはそのような兆候は見られなかったとのことでしたので、子どもの活動のなかで限界がきたのでしょう。大人気の遊具だっただけに残念ですが、先生が気づいてくださり、子どもたちに怪我がなかったことに胸をなでおろしたのでした。

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これからも、子どもたちが安全に遊べるような環境作りに励みたいと思います。

Maikka

故 中川登美子先生を偲ぶ会に

話は広野幼稚園の歴史の一端から始まるのですが、神武景気・岩戸景気・いざなぎ景気などと経済の発展の一途を

たどっていた昭和40年代、当時、幼児教育には、文字や数への関心を深めることは小学校教育の妨げになるなどと、

今でも信じられない話が幅を効かせ過ぎていた時代、私たちの幼稚園はスイスの世界的な幼児教育学者ピアジェの理論に

基づいた教材、“はじめてのことば”と“はじめてのかず”を採用することにいたしました。

 

この時期、この教材を作っていた幼児教育出版という会社と知り合いました。

これらの教材は、半世紀を経た現在も、“ファーストシリーズ”の“ことば”と“かず”という名前で現在も続けられ、

この教材を保護者の皆様にお買い求めいただき、子どもたちとともに、ずっと使い続けているのです。

 

故中川登美子先生は、この会の専任講師として、特に、採用した当初、再々、大阪から広野幼稚園まで

お出向きいただき、当時の現役の先生方を楽しませ、盛り上げながらのきめ細かい講習で、

その意義と指導法の一端をご教授いただきました。

 

また、なぜか大層広野幼稚園をごひいきにしていただき、昭和54年に出版された“ゆたかな表現力と心を育てる”

“こくばんあそび”の表紙には、当時の○優子先生をご起用いただき、また、カラー印刷の2頁目には、○○愛子先生を

掲載される(下記の写真)など、親密な関係を保ちました。

 

それなりのお年になられてからも、全国各地を飛び回られ、各所にその足跡及び業績を残されたこと、

“知る人ぞ知る”存在でした。昨年度に行われた幼年教育会の50周年記念式典ではお元気な会話を交わしたのが

最後になりました。

謹んで、お悔やみ申し上げます。

 

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園長

カリキュラム検討会に劇的な変化が!

6月5日は、宇治で一番大きなお祭りであるあがた祭りのため午前保育でした。

この日の午後は、広野幼稚園にとって歴史的な日でありました。

 

それは、毎月行っている年少児担任たちによるカリキュラム検討会の席でした。

ここに、出席していた2/3以上の保育者たちは、各自のテーブルの上にパソコンを

備えていたのでした。これだけなら、今ではいくつかの幼稚園・保育所でも行われている

かもしれませんが、この日、行ったのは、このすべてのパソコンにあらかじめ入力されて

いる月間カリキュラムが同時に一斉に表示され、話し合いが出来るという、

画期的な場の提供、研究体制・伝達体制であるのです。

 

パソコンが出始めたかなり昔、ペーパーレスという言葉が幅を効かせたときも

あったかと思いますが、残念なことに掛け声だおれになった事業所もかなりあったように

聞いています。遅がけながら、広野幼稚園でもようやくこのペーパーレスの道の第一歩を

踏み出したところです。

 

ゆり2組で行っていましたので、お粗末なことに、職員室からの電波が届きにくく、

半数近くのパソコンが操作できにくいというトラブルもありましたが、後で、職員室の

隣のクラスで再確認しますと、異常がないことが分かりました。

 

今後も、いろいろなトラブルを克服しながらその時々に、より良い方法を見つけ、

改善し、よりよい研究体制の充実を図っていきたいと思っています。

 

平成27年の、あがた祭りの日にスタートしたことは、広野幼稚園にとって

一つのエポックとなったことは確かです。

自称 保育バカ