☆ 小林芳朗先生の瑞寳双光章の祝賀会で

2月11日、建国記念日の好き日、京都は北の宝が池のプリンスホテルで、昭和55年に西京区で境谷幼稚園を開園なさった小林芳朗先生の瑞寳双光章の祝賀会が夕方から催されました。この地の前日は大雪だったので、もちろん、市バス・地下鉄を乗り継いで会場に向かいました。

小林先生との出会いは、昭和40年代の半ば、瀬戸内海の海上でのことでした。お互いが若かったころ、意欲に燃えて日本幼年教育会の何かの研修に向かう途中のことでした。研修内容を覚えてないのは残念ですが、青い波を切って走る船の上で幼児教育に対する情熱をぶっつけあったのでした。

“少年老いやすく、学成り難し”の言葉どおり、お互いがそれなりの年になってきました。私は“馬鹿の一つ覚えのように”保育の道に邁進してきましたが、彼は保育に情熱を注ぎながらも、新しく、幼児・乳児施設の建設・運営にも力を注ぎ、昭和55年には境谷幼稚園を開園、その後も、西山ニュータウンの幼児教育の中核を担い、平成16年には、新たな乳児保育という世界に悩みながらも保育園を設立したばかりでなく、その後も、近年は、たから保育園という二つ目の保育園を設立・運営に成功されているようです。

地域の方々と歩みを親密に共にしてこられたのでしょう、祝賀会の会場は300人を越えようかという人々が集まりました。彼の人徳のなすところです。

会は、男性4人、女性4人のグループがラッパ(トロンボーンなどを含む)が、祝宴のトップを切るとともに、会の半ばでも、随時、出場し、雰囲気を盛り上げました。
たまたま、この日は午前中は広野保育所の子どもたちが未だ新築に近い、京都は岡崎のロームシアターで行われていた幼児フォーラムの音楽会に出ていましたので、朝夕のレンチャン(連雀)となり、結構からだに厳しかったので、終わった後はタクシーにしました。

お陰で、家に帰り着いたのは、ちょうど午後9時で、このブログを書く時間ができたのはラッキーでした。  園長

☆ 読売新聞東京本社の編集局教育部の方が取材に

東京から読売新聞東京本社編集局教育部の方の取材を受けました。少し以前から訪問される日程は決まっていたのですが、当方の生活がとてつもなく忙しく、とても、このブログを書く暇がなかったのでした。

6年前に起こった東日本大震災の日が巡ってくるので、それに関連した一連の特集記事を書こうとされたいたようです。約半年前の朝日新聞の記事を目にされていたこの記者は、より深いものを求めて取材に来られたようでした。それにしても、この半年間の間に全国紙の2紙の本社から取材を受けるとは、びっくりを通り越して、適当な言葉が見つかりません。

11時前に来園された記者(I氏)は、後から合流する大阪本社のカメラマン(U氏)を待っている間も、質問の矢が飛び交います。あらかじめ、予習をしてこられているので、広野の安全に対する備えも、ある程度以上、認識されています。そのうえ、座談中も常に左手にメモ用紙、右手に筆記具で、間断なく、筆を進められる姿には、感動すら覚えます。

中でも広野幼稚園が長年にわたって溜めて(蓄積して)いて、一見しただけではマイナス的にも見えるビッグデータ(ヒヤリハット記録、負傷者記録、不適合報告書など)に感心され、聞いたことを書き留めるだけではなく、自ら持ちだし不可のデータはこの場で黙読・記憶しようとされているかに見えました。やはり、エリート社員とはこのように人の2倍も3倍も仕事をするのかと、改めて感動した次第です。

カメラマンが到着された後は、園内を一周され、より適切なシャッターが切れるところはどこかと模索されていたようでした。

変(?)なところの写真になるかもしれませんが、広野幼稚園が真摯に考えている安全についての情報が、少しでも全国津々浦々の幼稚園・保育園、保護者の皆様のお考えにも影響を与えられたら、これに過ぎる喜びはありません。 園長