第1回、ブラタモリの跡を追って

豊臣秀吉はほぼ天下を統一した天正19年(1991年)、京都の町を外敵の侵入や河川の氾濫から守るため、本拠地、聚楽第を中心に四方22キロに及ぶお土居と呼ばれる堤防(城壁?)を完成させました。お隣中国の“秦の始皇帝が築いた万里の長城”を小さくしたような考え方です。

 

このお土居は、現在、京都市内の各地(9か所)に点在しています。簡単にわれわれの目に触れるところでは、北区の加茂川中学校の西、大宮交通公園内などがありますが、今にして思えば、高さや幅も“まあこんなものか”と思う程度のものです。

 

11月のある日のこと、千本北大路の西北、左大文字の山ろくで、姿を消していたお土居跡の発掘調査が行われ、その現地説明会が行われるということなので、朝の9時半には、市バスに乗り込みました。

 

現場を見て感じたことは、やはり豊臣秀吉のすごさでした。今まで見てきたものは、やはり飾り物程度でした。本物のお土居の周りは犬走り(幅は2.6メートル)に囲まれ、その下には空堀があります。堀の幅は約8メートル、深さは4メートル以上で、犬走りより上に積まれた土塁の高さは9メートル、堀の底から眺めれば、現代建築では、何とビルの3階以上です。

 

このような工事を聚楽第を中心に四方22キロに及ぶ大工事をたった4か月で完成させたとは、私の祖先も多分この工事で働かせられていたのではないかと思うと、さすが秀吉ファンの私も胸が痛みました。

 

この後、鷹が峰のお寺の紅葉でも見ようかと思い、なおも北を目指しますと、第1回のブラタモリで出てきた一つのお土居に出会いました。ここはスケールの点で少しばかり、往時の面影を残しています。

 

管理されている前のおまんじゅう屋さんでカギをお借りし、お土居の上に登ったり、犬走り的なところまで降りてそのスケールの大きさを体感させていただきました。秋の木々の紅葉も見られ、大満足でした。

 

その後、ブラタモリの映像を思い浮かべつつ、京都の北に点在するお土居を巡り、そのスケールの大きさの一端を体感いたしました。

園長

 

追伸     この見学で、この4・5年内に見た豊臣秀吉の遺跡(の発掘現場)は、自分の家の近くの聚楽第、宇治川右岸の太閤堤、伏見桃山の指月城趾、今回のお土居跡の合わせると4か所、

改めて、豊臣秀吉という人物が京都に与えた影響の大きさを実感しているところです。

 

 

 

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