再び、奈良へ

前日、足の疲労を少し直そうといろいろと試みたのですが、あまりかんばしくなく、この日は、少々足を引きずりながらの散歩(?)です。行き先は、奈良の東南と決めていました。東北の後は東南です。おそらく、次回は南西でしょう。

奈良駅を降りるや否や、春日大社の南奥にある新薬師寺、白毫寺を目指します。距離で言えば、駅から4キロメートルほどでしょうか。

新薬師寺の前に着いたのは開門前ですので通り過ぎ、白毫寺へと行き先を変更します。新薬師寺から白毫寺への道は、道標に“山辺の道”とありますので、にわかに旅心が増してきます。

白毫寺の参道はかなりの坂ですので、登るにつれて奈良の町や、遠くは、生駒・信貴ばかりでなく、葛城の山々まで見渡せます。高さで言えば、一昨日行った二月堂の周り回廊とほぼ同じくらいではないでしょうか。白毫寺は、関西花の寺のグループとしても著名で、メインは萩やツバキのようです。仏様では、ご本尊の他閻魔大王やその両脇に侍る、地獄の裁判官や書記などの像が印象に残っています。

この後は、広野幼稚園が長年教育実習生を引き受けている佐保女子短大に向かおうとしたのですが、受付の方にうかがうと一山は越えなければと言われましたので、残念ながらまたの機会にいたしました。

それならと新薬師寺に戻ります。“新”と付きましても、西ノ京の薬師寺より新しいだけで、創立されてから1000年以上は経っている古刹です。また、このお寺は自分にとってパワースポットの一つと思っているところです。その理由は、伐折羅(バザラ)大将がおられるからです。この寺はご本尊の薬師如来よりも脇に侍る12神将が有名なのですが、この一つ、伐折羅大将(もちろん、国宝)に恋していたことがあったからです。自分の部屋の壁に、この像の写真を掲示していたほどです。伐折羅大将は戌年の守護神で、自分は猪年ですので、守り神ではないのですが、姿・形にひかれたためです。

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2時間ほど粘ったでしょうか、朝来た道を戻ります。その途中で、明治時代の文豪、志賀直哉が自分で設計したという寓居を見たり、奈良の名家の一つであろう今西家の書院を見学したり。その折りには、文字が書けるという“多羅葉”という木を知り、大喜びでした。広野幼稚園が七夕時に使う、“梶の葉”に似ているのです。

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その後、このところ人気の高い“ならまち”まで戻り、元興寺では聖徳太子の幼い頃のお姿に、また、たまたま、開帳されていた興福寺の北円堂で(巨匠の運慶一門が彫った)仏像たちを拝観し、帰途についたのでした。不思議なことは、足の調子は、元に戻っていました。明日からは仕事に何の支障もありません。

園長