パートナーを失う

寒中、お見舞い申し上げます。

私事ですが、残念なことに、昨年の暮れ、公私ともども生活してきた吉村光子が突然この世を去りました。12月21日午後9時ころのことだったと推定されています。直接の死因は心臓麻痺でした。今日から数えて25日前のことです。

この日は、翌日には先生方の年末調整を兼ねた12月の給料計算をせねばならないということで、いつもより遅く(6時30分頃)まで残っていました。めずらしく、自分が「朝日が丘の家まで送って行こうか?」と誘うと、「孫の夕食を作らなければならないから、フードショップまで送ってくれる?」とのことで、その店先で別れたのが最後でした。別れて2時間30分後のことだったようです。

 

彼女と結婚したのは、昭和42年のことでした。滋賀県の膳所高校から滋賀大学の教育課程に進み、能登川で小学校の低学年の教員をしていた彼女と、見合い結婚をしたのでした。

 

広野幼稚園では、当初こそ臨時に年長児のクラスに入ることもあったのですが、そのほとんどを幼稚園の経営に携わってくれました。それは自ら望んだものではなく、前園長から頼まれたから、自分(吉村裕)が金銭面で頼りないからという理由でした。 時にふれ、言っていたことは「私は子どもたちの教育をしたくて学校に入り、幼稚園の人ということで結婚した」ということでした。専門的には数学を専門としていましたので、結果的に言えば、財務や経理の仕事も嫌いではなかったと思うのですが、“もっと子どもたちとかかわりたかった”というのは、生涯の心残りであったかと思うと、本心から申し訳なく思っています。

 

昭和42年から数えて49年間、雨の日も風の日も、妊娠中も子育て中も、広野幼稚園の根幹を支えてくれました。近年は、乳癌も患っていたようで、最後は気力だけで生きていたような感じでした。しかしながら、一度も「しんどい」とか「痛い」という言葉は口にしない人間でした。「しんどいか」と聞いても、「しんどくない」と答えた人でした。芯は非常に強かったのでしょう。最後まで人の手を借りずに往生したのは、彼女らしい生きざまだったのでしょう。

今は、安らかにお休みくださいと念ずるばかりです。 合掌

園長