異年齢交流

今日は、月曜日!大好きなお母さん弁当の日です。

広野幼稚園では、年中・年少の異年齢交流を兼ねて年中・少の数人が入れ替わり、

部屋を交換して昼食を食べる機会を設けています。

子どもたちは、初めての異年齢交流にワクワクドキドキ。

年中さんは、年少さんのコップにお茶を入れてあげたり、

用意を少し手伝ってあげたりとお兄さん・お姉さんになった気分で

お世話をする姿が見られました。

年少さんの子どもたちは、そんな年中さんの姿に目を輝かせていました。

初めは、年中の子どもたちも年少の子どもたちも緊張していましたが、

「いつも、何して遊んでるの?」「あ、卵焼き一緒やなぁ!」などの会話も聞こえてきて、

みんなで楽しくお弁当を食べました!

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食べ終わった後も、「お部屋まで送ってきてあげる!」と年少さんを送り届ける姿も

見られ、微笑ましい気分になりました。

ノーチャイムデーだけでなく、普段の園生活の中でも異年齢の交流を行っています。

また、一緒にお弁当を食べましょうね♪

 りんごちゃん

 

頑張れ!広野の先輩たち

昨日の朝、起きたら一面真っ白の雪景色でしたね。きっと幼稚園のみんなは大喜びで雪だるまを作ったり、雪あそびを楽しんだことでしょうね。

最強寒波と言われていたので、「やっぱり」とも思いましたが、この土・日にはセンター試験が行われていました。受験生やその親御さんにとっては心配な雪だったことと思います。京都でも1時間繰り下げで開始とのことでしたが、この日に向けて頑張ってこられた受験生やご家族の気持ちを考えるとハラハラ・ドキドキされたことと推察いたします。

中学・高校・大学受験に挑む広野の卒園生さん達!どうかどうか体調に気をつけて頑張ってくださいね。

 

金曜日には2月から実習に来られるB短大の学生さんが6名、オリエンテーションのため来園されました。その内の3名が卒園生で、13年振りにお会いしましたが、昔の面影がありタイムスリップしました。

十年一昔とは言いますが、時の経つのは早いものです。幼稚園を卒園されてから13年後、幼児教育を志し、こうして園で再会できることは私たちにとって大きな喜びです。

保護者の皆さまもどうか温かく見守ってくださいますよう、よろしくお願いいたします。

乗り気コラム

パートナーを失う

寒中、お見舞い申し上げます。

私事ですが、残念なことに、昨年の暮れ、公私ともども生活してきた吉村光子が突然この世を去りました。12月21日午後9時ころのことだったと推定されています。直接の死因は心臓麻痺でした。今日から数えて25日前のことです。

この日は、翌日には先生方の年末調整を兼ねた12月の給料計算をせねばならないということで、いつもより遅く(6時30分頃)まで残っていました。めずらしく、自分が「朝日が丘の家まで送って行こうか?」と誘うと、「孫の夕食を作らなければならないから、フードショップまで送ってくれる?」とのことで、その店先で別れたのが最後でした。別れて2時間30分後のことだったようです。

 

彼女と結婚したのは、昭和42年のことでした。滋賀県の膳所高校から滋賀大学の教育課程に進み、能登川で小学校の低学年の教員をしていた彼女と、見合い結婚をしたのでした。

 

広野幼稚園では、当初こそ臨時に年長児のクラスに入ることもあったのですが、そのほとんどを幼稚園の経営に携わってくれました。それは自ら望んだものではなく、前園長から頼まれたから、自分(吉村裕)が金銭面で頼りないからという理由でした。 時にふれ、言っていたことは「私は子どもたちの教育をしたくて学校に入り、幼稚園の人ということで結婚した」ということでした。専門的には数学を専門としていましたので、結果的に言えば、財務や経理の仕事も嫌いではなかったと思うのですが、“もっと子どもたちとかかわりたかった”というのは、生涯の心残りであったかと思うと、本心から申し訳なく思っています。

 

昭和42年から数えて49年間、雨の日も風の日も、妊娠中も子育て中も、広野幼稚園の根幹を支えてくれました。近年は、乳癌も患っていたようで、最後は気力だけで生きていたような感じでした。しかしながら、一度も「しんどい」とか「痛い」という言葉は口にしない人間でした。「しんどいか」と聞いても、「しんどくない」と答えた人でした。芯は非常に強かったのでしょう。最後まで人の手を借りずに往生したのは、彼女らしい生きざまだったのでしょう。

今は、安らかにお休みくださいと念ずるばかりです。 合掌

園長