詩人 吉野 弘 さん

今日 詩人 吉野 弘さんの訃報が報じられました。

毎年 夏休みの直前の春日山(園長便り)で必ず保護者の皆さんにお伝えしているこの詩の作者です。

「生命は」

生命は

自分自身だけでは完結できないように

つくられているらしい

花も

めしべとおしべが揃っているだけでは

不充分で

虫や風が訪れて

めしべとおしべを仲立ちする

 

生命は

その中に欠如を抱き

それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分、他者の総和

しかし

互いに欠如を満たすなどとは

知りもせず

知らされもせず

ばらまかれている者同士

無関係でいられる間柄

 

ときに

うとましく思うことさえも許されている間柄

そのように

世界がゆるやかに構成されているのは

なぜ?

 

花が咲いている

すぐ近くまで

虻の姿をした他者が

光をまとって飛んできている

 

私も あるとき

誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき

私のための風だったかもしれない

 

私は 大学院時代 先輩に勧められて読んだ 浜田寿美男さんの「いま 子どもたちの生きるかたち」のまえがきに引用さていた 「I was born」という詩で吉野さんの詩に出会いました。

その後 吉野さんの詩集や論評の「現代詩入門」を読むうちに 詩集に掲載されていない(はず) この詩にも出会いました。

 

「動詞『ぶつかる』」

ある朝

テレビの画面に

映し出された一人の娘さん

日本で最初の電話交換手

 

その目は

外界を吸収できず

光を 明るく反映していた

何年か前に失明したという その目は

 

司会者が 通勤ぶりを紹介した

「出勤第一日目だけ お母さんに付添ってもらい そのあとは

ずっと一人で通勤してらっしゃるそうです」

「お勤めを始められて 今日で一ヶ月

すしずめ電車で片道小一時間……」

 

そして聞いた

「朝夕の通勤は大変でしょう」

 

彼女が答えた

「ええ 大変は大変ですけれど

あっちこっちに ぶつかりながら歩きますから、

なんとか……」

 

「ぶつかりながら……ですか?」と司会者

 

彼女は ほほえんだ

「ぶつかるものがあるとかえって安心なのです」

 

目の見える私は

ぶつからずに歩く

人や物を

避けるべき障害として

 

盲人の彼女は

ぶつかりながら歩く

ぶつかってくる人や物を

世界から差しのべられる荒っぽい好意として

 

路上のゴミ箱や

ボルトの突き出ているガードレールや

身体を乱暴にこすって過ぎるバッグや

坐りの悪い敷石や焦々(いらいら)した車の警笛

 

それは むしろ

彼女を生き生きと緊張させるもの

したしい障害

存在の肌ざわり

 

ぶつかってくるものすべてに

自分を打ち当て

火打ち石のように爽やかに発火しながら

歩いてゆく彼女

 

人と物との間を

しめったマッチ棒のみたいに

一度も発火せず

ただ 通り抜けてきた私

 

世界を避けることしか知らなかった私の

鼻先に

不意にあらわれて

したたかにぶつかってきた彼女

 

避けようもなく

もんどり打って尻もちついた私に

彼女は ささやいてくれたのだ

ぶつかりかた 世界の所有術を

 

動詞「ぶつかる」が

そこに いた

娘さんの姿をして

ほほえんで

 

彼女のまわりには

物たちが ひしめいていた

彼女の目配せ一つですぐにでも唱い出しそうな

したしい聖歌隊のように

 

 

あえて 解説はしません。

子どもをしなやかでたくましく育てるエッセンスも この二つの詩に凝縮されていると私は思います。