どんりゅう園長のひとり言

現実に打ち拉がれて…

その今週末の教育研究大会で 小児科医で大学の教員でもある講師の基調講演がありました。演題は「気になる子どもと発達障害」。道北の私立幼稚園を中心に約500名の保育者が参加しました。

講師のお話しが終わった後、閉会式があり主催者の代表の挨拶がありました。その方は 基調講演を通して聴いていなかったようですが 「最近では文科省の調査結果等も踏まえて 疫学的に日本の10%前後の子どもに発達障がいを含めて特別な教育的ニーズ(特別な配慮や支援が必要)があるとの認識のもとに様々な施策がとられている…」 という講演の一部分を切り取って 冗談まじりに参加者をあるいは発達障がいのある人を揶揄していると思われても仕方ない発言がありました。

残念なのは その方の発言はもとより 小声でその様な発言を残念がったり批判する保育者がいる一方で その時の状況や雰囲気はあるものの 多くの保育者が声を出して笑っている事実があったことです。

講演で講師が 発達障がいのある子どもの対応で注意することとして 障がいそのものや子どもの失敗などを非難したり揶揄しないようにすることを示していたばかりなのに です。

そんな些細なことをいちいち… と思われる方もいるでしょうが その方やその日の参加者への皮肉などではなく その場に障がいと関係ある立場にいる あるいは自分自身が発達障がいで苦しんできた人がいるかも知れないということに 想像が及ばないことは 保育関係者としては一考ないし反省を求めたい と私は強く思います。

スティーヴン スピルバーグ氏が学習障がいであることを自ら明らかにしたことが報道される中で 日本の特別支援教育は社会の認識や意識を含めて 欧米から25年から30年遅れている状況であることが報じられました。

平成19年に改訂された学校教育法で幼稚園においても特別支援教育を行うことが明確に位置づけられて5年が経過しているにもかかわらず 幼稚園の保育者の認識や具体の保育実践がおいついていない現実。もちろん私学ゆえの様々な考え方 行政の施策の不備や不十分さや現場の事情は現実の問題として歴然としてありますが せっかく 教育研究大会の基調講演にこの演題この講師を選定した以上 全体が問題意識を共有することぐらいは 今 ここからでもできると 私は思うのですが…。

美晴のような幼稚園が特別な幼稚園ではない という状況になる日がくるのはいつになるのか…。現実に打ち拉がれそうになります。美晴の保育はまだまだ至らないことばかりですが 前に進み続けたいと思います。

 

保育は子ども理解から

先週と今週末 北海道私立幼稚園の教育研究大会で それぞれ公開保育研究で自園以外の保育をみる機会に恵まれました。今年の5月まで 財団法人全日本私立幼稚園研究機構の研究研修の仕事を担っていたので その間 全国の幼稚園の保育実践をみる機会を得ました。それぞれに建学の精神や独自の保育理念に基づいた素晴らしい保育実践で 多くの学びと刺激をうけてきました。もちろん 今月の北海道内での保育実践も しっかりした教育課程と指導計画に根ざした保育で多くの学びを得る機会ではありましたが 保育の難しさと怖さ を実感する機会ともなりました。

他の幼稚園の保育に触れる度に 美晴幼稚園の保育を見直す視点を得ることができます。

保育は「子ども理解」から その全てがはじまるという基本の基本は どの保育を観ても実感し再確認する最大の視座です。

このブログ 美晴の保護者や関係者ばかりでなく保育に関係する多くの方々に読んでいただいているそうなので 少し専門的な話でごめんなさい。文部科学省の指導資料集の中でも最も発行販売部数が多いといわれる第3集「幼児理解と評価」は養成課程の学生ばかりでなく現職の保育者や園長も熟読すべき必読書?であると再度思いました。

2005年

とっても個人的なことですが 今日は2005年の縁を感じる一日でした

北海道私立幼稚園教育研究大会の道南ブロック大会が 室蘭市、伊達市、洞爺湖町の幼稚園を会場として行われ どんりゅう園長は京王幼稚園の公開保育研究を観に出かけました。私が幼稚園の世界に入った頃から研究会やSIあそびでご一緒させていただいていた尊敬する園長先生の幼稚園の保育は 園長先生の思いの込められた手づくりの屋外環境をベースとした素晴らしい保育実践でした。学生時代どんりゅう園長の授業を受けていた先生のクラスを中心に参観させていただき 経験の浅い保育者の実践にはいくつか質問をして意見したいことがありましたが 控えました。

伊達まで自家用車での移動でしたので 昨日からアップル社のHPで創業者で昨年亡くなったスティーブ・ジョブズ氏の追悼メッセージのBGMに流れている ヨーヨーマが演奏する バッハの無伴奏チェロ組曲のCDを聴きながらドライブしました。

どんりゅうが大学を卒業して一人暮らしをしていた1980年代の後半は汎用のCDプレイヤーが発売された頃で 毎朝 必ず ヨーヨーマが1982年から83年かけてデジタル録音したCD版のバッハ無伴奏チェロ組曲第1番を聴いていました。そんなこともあって 2005年にヨーヨーマが札幌で演奏した時は 運良くチケットを購入することができたので キタラで バッハの無伴奏組曲を聴くことができました。(その夜のプログラムでは ジョブズを追悼している プレリュードの演奏はなかったのですが…)

その2005年 どんりゅうは ドイツとフランスとイタリアの保育実践を視察する機会を得ました。ドイツとフランスでご一緒した函館と室蘭のお二人の先生と 研修会を終えた後 洞爺湖畔にある老舗のレストランで夕食をいただきました。

保育に対する思いが通じるお二人とのおいしい食事とお話しは とても楽しく そして 必ず深い学びがあります。

園経営する立場の保育実践者の中に 子どもの幸福を希求する立場での保育者が少なくなってきたなぁ と思うことが多い近頃 このような時間は どんりゅう園長にとって本当に貴重な時間です。

今日は 思い出に残る一日となりました。

 

敬老の日に思うこと

数年前まで 敬老の日はその年の曜日に関係なく 9月15日と定められていました。その9月15日は私の父の誕生日でもありました。その父は11年前 86回目の誕生日を病院のベッドで祝った直後 体調が急変し 9月18日に他界しました。その数日前 9.11 世界の状況を一変させる事件があった年です。

私が幼児教育の世界にはいったのは 1991年 70歳を過ぎて胃がんを患った父と学園のことを考えての急な決断でした。この年は湾岸戦争が始まった年でした。

当時の私は、東海大学の学務部で教務を担当しながら恩師の元で野球部のコーチをしていました。そのまま勤務をしていれば大学人として あるいは大学野球か高校野球の指導者として 今にいたっていたかも知れません。しかし 私は幼稚園の「経営者」となることを選択しました。

経営者を志向していた私は数年後 ひょんなことから数ヶ月間、幼稚園の現場を離れました。

現場にもどる決心をした時に 「経営者」であること以上に「園長」として幼児教育の現場に 子どもや保育者に向き合いたと強くおもいました。そして 子どもについて 幼児の発達について 歴史を含めた幼児教育そのものについて きちんと学び研究するために 1998年から2000年にかけて 当時 すでに日本の中では幼児教育を専門とする講座を有する大学院が3大学しかなかったため その中で通学する可能性が唯一あった 上越教育大学の大学院に入学しました。奇しくも 園長に就任し個人的には結婚をした年でした。

その2年間 34歳と未熟で週の半分を不在にしている園長の力不足は学園長であった父が支え補ってくれました。

修士課程を修めて戻ってきてから 私立幼稚園の中でも 研究研修に関係する仕事を担うようになりました。そこでの経験や素晴らしい先輩との出会い そして文部科学省との仕事などを通して 世間の風潮に惑わされたり個人的な思い込みではなく 学術的な知見や信憑性が高い調査結果などに基づいた 公教育としての幼児教育における明確な考え方をもてるようになりました。

そして 父は私に園運営のすべてを委ねてくれました。

父の 他界するまでの学園長としての5年間は こぐまの森の寄贈を含めて 美晴幼稚園の今と未来のための おくりものだったのかも知れません。

そして 2年前の同じ9月。母が他界しました。

二人が個人立の認可幼稚園として1957年に創設した美晴幼稚園を美晴らしく充実させたいと切望する9月です。

おもいがけない涙

今日は月寒公民館体育館で第26回を数える親子ふれあいコンサートがありました。どんりゅう園長は月寒地区の青少年育成委員としてコンサートの運営のお手伝いをしました。

月寒高等学校の吹奏楽部、マンドリン部、月寒中学校吹奏楽部、あやめ野中学校ウィドアンサンブル、南月寒小学校吹奏学部、月寒小学校合唱団、月寒東小学校合唱団の子どもたちがそれぞれ素敵な演奏を披露してくれました。

小学校の低学年までは 子どもの顔で卒園生だとわかりますが 小学校でも高学年や中学生になると 子どもによっては面影をたどれずにお母さんの顔をみて 「あぁ ◯◯ちゃんもいるんだ…」と気づくことがあります。今日、何人もの卒園生が出演していましたが、幼稚園のころはたどたどしい話し方だった子どもが自信をもって堂々と歌っている様子や、おとなしかった子どもが部の代表として凛として挨拶し演奏している姿などをみると、本当にうれしいものです。

コンサートの締めくくりに 「つきさっぷの少年」と「ふるさと」の合同合唱がありました。ふるさとの合唱を聴きながら、不意にこみ上げる感激が胸の底からズンと突き上げました。おもわず涙があふれました。

9月は私にとって特別な月ということもありますが、子どもたちの真摯さが私ばかりでなく多くの人々に感動を与えたのでしょう。

いずれにしても蒸し暑い館内で、リハーサルから合同合奏まで長時間がんばった子どもたちは見事でした。

それから 月寒高校の生徒が終始 他の学校の生徒や児童のサポートをしていた姿は このコンサートの意義を象徴していて とっても清々しかったです。

尊い努力

時折 平和公園の鉄棒で逆上がりの練習(特訓?)をしている親子を見かけます。お父さんが多いかな…。

本来 鉄棒の逆上がり(上がり技)は3、4年生からの課題。たまたま、娘の小学校のPTA野球で一緒の先生に伺ったところ、1、2年生から取り組むこともあるそうです。

失礼な言いぶりですが 器械体操の名コーチが特訓しても 子どもは1日や2日で逆上がりができるようにはなりません。

写真は昨日の月寒公園での一こまですが 上り棒を登ったり ジャングリジムで上下左右デングリ返しのような感覚を楽しんだり 運ていを懸垂で移動したり 鉄棒でぶたの丸焼きなど戯れあそぶ…

そんなふうに手のマメを2、3回つぶす位あそびこんだら 誰に教えられなくても 自分で何度か挑戦するだけで 自分の身長より高い鉄棒でも逆上がりくらいの上がり技はなんなくできるようになるものです

私は お父さんとの特訓で逆上がりができるようになるか、ならないか よりも 自分が困難に挑むときに お父さんやお母さんがそばに寄り添ってくれる つきあって一緒にがんばってくれる ことの方が何倍も大事な意味のあることだと思います。

きっと お父さん お母さん といっしょにがんばった逆上がりの特訓は 一生子どもの心に刻まれる大切な思い出になることでしょう。

あたりまえに「けんか」ができるよろこび

どんりゅう園長は職員の朝の朝礼後 ガリバーのAEDの整備をした後 東京に向かい東日本大震災の記録映画の編集会議に参加しました。本来でしたら 一線から退いているので参加できる立場ではないのですが 先輩のみなさんの配慮で席に着かせていただいています。

昨年末から年明けにかけて 岩手 宮城 福島 各県の被災幼稚園の先生方へのインタビューの編集方針を話し合ったのですが その時 昨年 訪ねさせていただいた現地での取材ことを思い出しながら 福島第一原発事故の影響で会津若松に避難している幼稚園でのお話しが強くよみがえってきました。

「子どもたちがけんかをさけている…」というお話しは その時 子どもたちがおかれていた状況を象徴していました。避難先からさらに県外などへ避難してゆくお友だちの出入りが頻繁にあって 子どもらが「けんかしちゃうともしかしたらおともだちがまたいなくなるかもしてない…」と不安になって あたりまえのイザコザやけんかを 意識してさけている というのです。

イザコザやけんかは 子どもたちが互いに心身共に健康であるからこそ 起こる状況であることを 再認識 というか現実から思い知らされました。

子どもたちが 互いに自分をさらけだし その中でぶつかり合って 練られて育ちあえることは ありがたくも豊かな事実であることを しっかり心に刻みたいと思います。

インクルーシブエデュケーションシステムへ

昨日 障がいのある子どもの就学について 国の今後の方針が示された旨の報道がありました。

以下 転載

<障害児>普通学校通いやすく…従来の施策転換 文科省

毎日新聞 9月5日(水)15時1分配信

文部科学省は、現在障害を持つ子供の通学先が「原則として特別支援学校」と定められている法令を改正し、普通の小中学校に通学しやすくする方針を固めた。これまでの障害児教育の施策を転換し、重い障害があっても本人や保護者の意向を尊重して小中学校に通うことで、子供に達成感や充実感を感じてもらうのが狙い。学習支援にあたる教職員の増員や学校のバリアフリー工事費を来年度予算の概算要求に計上する。

学校教育法施行令は、一定程度以上の視覚や聴覚、知的障害を持つ子供は原則、特別支援学校に就学すると決めており、教育委員会が認めた場合に限り例外として通常の小中学校に通うことを認めている。文科省は今年度、同施行令の改正を目指し、教委が本人や専門家の意見も聞きながら就学先を柔軟に決める仕組みにする。

文科省によると、昨年度、特別支援学校の対象になる障害を持つ児童生徒は約8万5000人(全国の約0.8%)。このうち実際に特別支援学校に在籍しているのは約6万5000人で、例外的に小中学校に設けられた「特別支援学級」に約1万7000人▽通常の学級に在籍し週1~8時間の特別な指導を受ける「通級指導」に約3000人--がいる。

法令を見直すことで今後、障害があっても小中学生と一緒に過ごすケースはさらに増えると想定される。文科省は、学校生活や学習をサポートする教職員を増やすなど環境を整備することで、小中学校で共に学べる体制づくりを進める。また、特別支援学校と小中学校間の転入学もしやすくする。

平野博文文科相は「障害者は学校を卒業すれば社会に出る。学校にいるうちから友人らと一緒に学んで共感できるような仕組みづくりを進めたい」と話している。【石丸整】

国際的には 障がい者を包容する教育制度(インクルーシブ・エデュケーション・システム)を志向する方針が示され 日本もその実現を目指しています。

しかし 私はけっして悲観してはいないものの その実現の道は平坦ではないと考えています。それは 障がい者や障がいそのものへの理解が日本の場合 社会的にも法制度的にも なにより学校教育の現場でも十分なされているとはいえないからです。

まずは 私たち一人一人の認識と具体的なかかわり方から見直してゆきたいものです。

 

 

その場の空気?をよむ力

教育文化会館大ホールにどうしても立ち入れないお友だちがいました。この後 このホールで楽しいことが始まりそうだよ お友だちもいっしょだし楽しみにしているよ と促しても 返ってくることばは「おしまい」。

この会場の雰囲気は どうも苦手だよ もういいよ ここに入るのはやめにしよう といううったえが よく伝わってきたので どんりゅう園長とふたりで大通り公園に散歩に行くことにしました。

大通り公園の8・9丁目は モエレ公園の設計者でもあるイサムノグチの作品の滑り台があり この時期はウォーターガーデンもあって 大勢の子どもたちとその家族 いくつかの保育園と思われる保育者に引率された小集団が のどかになごいやかに よい雰囲気であそんでいました。

私たちも ウォーターガーデンには入れませんでしたが いくつかの遊具であそび 近くのコンビニエンスストアーでお茶を買って水分補給をしながらのどかに楽しく過ごしていたところ 幼稚園とおもわれる 2〜300人の大集団が一斉にやってきて 石の滑り台を占拠するようにあそんだかと思うと 瞬く間にお昼ご飯をとりに芝生に移動しました。たとえるなら それまでのよい雰囲気を切り裂くように短い時間に嵐が通り過ぎて その後はなにもなかったかのように元の状態にもどっていました。

今日 美晴幼稚園では平和公園の利用に向けて 一つのステップをふみだしましたが 大通り公園の出来事から 美晴幼稚園でも公園などの利用に際してはそこを利用されるすべての方々に配慮しなければいけないと 反省と課題を持ちました。

そして よく言われる「その場の空気を読む力」は 私たち二人と嵐のように通り過ぎた幼稚園の保育者のどちらが持っていたかは ここに書くまでもないことでしょう。

 

夏休みが終わります

長かった夏休みがこの週末で終わります。いよいよ月曜日から2学期が始まります。今から、夏休み中会う機会がなかった子どもたちに再会するのが待ち遠しいです。

この長期休業中、美晴の保育者は一学期のふり返り記録に整理して、2学期の保育計画をたてたり、小学生を対象としたガリバーのディキャンプや預かり保育などを担当して夏休みはアッという間に過ぎました。

今日も園内研修の後 市教委主管の特別支援教育の支援員の研修会に 新人の3人の先生方といっしょに私も一保育者として参加してきました。これまでこの様な研修会の運営や講師を担当してきましたが、やはり研修会は受講者として参加するのが良いです。

一受講者と参加していると 様々なことがみえてきますし 他の幼稚園の先生方の意見に多くの学びを得ました。その中でもかつて非常勤講師をしていた短期大学時代の教え子(といっても今では立派な保育者ですが…)が、的確な意見を述べていたことが とてもうれしかったです。

美晴幼稚園の新人3人もしっかり学んできました。きっと美晴の保育実践にいかしてくれることでしょう。