どんりゅう園長のひとり言

児童憲章

児童憲章

われらは、日本国憲法の精神にしたがい、児童に対する正しい観念を確立し、すべての児童の幸福をはかるために、この憲章を定める。

児童は、人として尊ばれる。

児童は、社会の一員として重んぜられる。

児童は、よい環境の中で育てられる。

一 すべての児童は、心身ともに健やかにうまれ、育てられ、その生活を保障される。
二 すべての児童は、家庭で、正しい愛情と知識と技術をもつて育てられ、家庭に恵まれない児童には、これにかわる環境が与えられる。
三 すべての児童は、適当な栄養と住居と被服が与えられ、また、疾病と災害からまもられる。
四 すべての児童は、個性と能力に応じて教育され、社会の一員としての責任を自主的に果たすように、みちびかれる。
五 すべての児童は、自然を愛し、科学と芸術を尊ぶように、みちびかれ、また、道徳的心情がつちかわれる。
六 すべての児童は、就学のみちを確保され、また、十分に整つた教育の施設を用意される。
七 すべての児童は、職業指導を受ける機会が与えられる。
八 すべての児童は、その労働において、心身の発育が阻害されず、教育を受ける機会が失われず、また、児童としての生活がさまたげられないように、十分に保護される。
九 すべての児童は、よい遊び場と文化財を用意され、悪い環境からまもられる。
十 すべての児童は、虐待・酷使・放任その他不当な取扱からまもられる。あやまちをおかした児童は、適切に保護指導される。
十一 すべての児童は、身体が不自由な場合、または精神の機能が不充分な場合に、適切な治療と教育と保護が与えられる。
十二 すべての児童は、愛とまことによつて結ばれ、よい国民として人類の平和と文化に貢献するように、みちびかれる。

制定日:1951年(昭和26年)5月5日

今から65年前のこどもの日に 広く国民に意見を求めながら制定された日本の児童憲章は その後 国連が示した児童の権利に関する条約にあるような 児童を主体にした意見表明権などの概念はみられませんが 子どもの最善の利益を保障する立場と意志は明確に表明されています。

今の時代にも大事にしたいものです。

【園長 東  重満】

 

追悼

文部科学省初等中等教育局特別支援教育課 課長補佐でいらした瀬戸麻利江(享年31)さんが 美晴幼稚園の入園式があった4月10日にご逝去されたとの訃報が翌日伝えられました。

このブログを読まれる方で文科省の瀬戸さんを知る人は皆無でしょうし 私自身 メールでは何度かやりとりしましたが直接 瀬戸さんにお会いしたのは三度しかありません。それでも瀬戸さんのことはこのブログに記しておきたいと思います。

今年の4月1日から国の「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」が施行されました。このことにより各省庁が所管事業における対応指針を策定し昨年度中に通知し周知を図っています。

その文部科学省の対応指針の策定を取り仕切ったのが瀬戸さんでした。私は 学識経験者、障害当事者・支援団体、都道府県・市町村、公・私立学校、文化・スポーツの各分野の関係者21名で構成された対応指針策定のための協力者の一員として会議に参画させていただき 瀬戸課長補佐と仕事をご一緒させていただく機会を得ました。

文部科学省の所管事業は前述の協力者の構成でもわかるように 学校教育ばかりでなく文化やスポーツなど多岐にわたります。また 学校教育を所管するため啓発や教育といった今後 長期的に社会の変革に影響する分野を担当されることからもその責任の重さが計り知れます。

瀬戸さんが非常に有能な文部官僚であることは直ぐにわかりました。この法律や所管事業への理解が深く事前の準備が周到で 多様な質問に的確に答え 良い意味で議論の方向性を程よくコントロールしていました。

そして 会議の前後 私を含めすべての委員に声をかけ コミュニケーションをとりながら 直接の対話の中で意見の趣旨や各委員の真意(思い)をさりげなく確認し 対応指針の具体の内容に反映されていました。それはとてもスマートで爽やかな仕事ぶりで見事でした。

対応指針はその後 内閣府のヒヤリングやパブリックコメントを経て昨年11月26日に発出さています。

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/material/1364725.htm

いわゆる障害者差別解消法の柱は「不当な差別的対応」と「合理的配慮の不提供」の禁止です。

このことが とりわけ学校教育に根付けば この国は大きく変貌してゆくのでしょうね。

何年先になるか分からないけれど その様子をいずれ文部科学行政の主翼を担っていったであろう若き文部官僚の瀬戸さんに自分の目で確かめて欲しかった。そう思うと残念です。

瀬戸さんは闘病の合間も 様々な場でこの対応指針を説明され 寄せられる意見や批判にも丁寧に対応されていたようです。誰よりも瀬戸さん自身がこの先を気にかけていらしたのだと思います。

そんな人の働きがあったことを 直接の面識はなくても 一人でも多くの人々に知っていて欲しいと思います。園長 東 重満

 

第52回卒園式・修了式

昨日の春分の日 美晴幼稚園第52回卒園式・修了式を終え 2015年度の正課の保育を終えました。

美晴の保育は多様な子どもによって織りなされる生活(あそび)による保育なので 子どもの従順性につけこんだり 大人の思惑通りに子どもをあやつることはできません。

家庭と手をたずさえながら歩調と呼吸をあわせ 共に一日一日を大切におくることでしか 前に進む事がかないません。

その保育を省みれば 保育者としての自分たちの至らなさ力不足にこころが痛みます。しかし 保育者全員が子どものありのままを受けとめ理解し 一人一人の「いま」「ここ」に寄り添いながら一日一日を紡いできたことは確かです。

美晴では小学一年生になったら困らない様に ではなく 子どもが その生涯にわたって自分らしく輝き幸福感の中で生きてゆくための種をまく気持ちで保育してまいりました。

その花を咲かせる「時」は 皆それぞれ でしょう。私たちは その時まで いえ その後もず〜っと遠くから 皆さんを応援しています。

いつか また どこかであおうね。

【園長 東 重満】

3月11日

この日のことは 一日過ぎてから書きたいと思いました。

昨日 朝洗面所で 「3月11日はめっちゃ出張あるんだね…」と高校2年の娘に言われドキッとしました。

5年前の3月11日も前日から全日本私立幼稚園連合会の会議があって東京に出張しており その会議の閉会の挨拶の最中にあの地震がおきました。その後 都市機能が完全にマヒした東京は異様な光景が翌朝までつづき私も帰宅困難者の一人となっていました。

日が変わってから地下鉄が順次運行を再開したので 羽田空港に近づくために まず地下鉄で有楽町まで移動して 大勢の人が待機していた東京フォーラムの屋内の片隅で時間を過ごし 思い切って屋外に出てタクシーを探し回り やっとの思いで明け方の5時ころにターミナルビルに人があふれかえる羽田空港にたどりつきました。

運良く運行を再開した千歳空港行きの飛行機に乗ることができ12日には帰宅することができました。

しかし その間 連絡がとれない状態が続いたので 家族には大きな心配や不安があったのでしょう。当時 小学校の卒業式をひかえていた冒頭の娘の言葉にそのことがあらわれているように感じました。

当時 私は公益社団法人全日本私立幼稚園幼児教育研究機構の研究研修委員長をしていたので会議や文部科学省の委託研究などの打ち合わせで毎週のように東京に出かけていました。あの時も三日後の月曜日には完全に海水がひいていない三陸や宮城の海岸線を上空から確認し 福島第一原発の真上を南下して(その後航路は西側に移動しましたが)東京に行きました。

その後 一年ほどの東京は電車の車内の電気は消され コンビニエンスストアーを含め商業施設や公の施設も薄暗い中で営業や仕事をしている いまでは想像することが難しいほどに異常な状態がつづきその光景は異様でした。

ここ数日で東北三県のことは伝えられますが あの時は東日本全体が確かに被災地であった事実はどこにいってしまったのでしょう…。教訓とし語り継ぐべきことはたくさんあると思うのですが…。いま 東京に行っても当時の痕跡をみつけることは難しいです。(震災でまがっていた東京タワーの頂上部のアンテナも綺麗に修復されたし…)

その後 文科省の委託研究調査や記録映画の撮影などのために 被災三県 とくに津波による被害が甚大な地域を現地調査させていただく機会を得ました。そのことは 文科省の調査報告や記録映画の完成というかたちにはなっていますが あまりに重たい事実に向き合ってきたので 私の中では未だに十分に消化されていません。自分のことばであらわすことができるのが いつになるのかまだ私自身わからずにいます。

ただ 現地の保育者の 震災時・震災後の在りようや言動に 大きな衝撃と人間としての共感と深い学びを得たことは間違いありません。そのことは 日々の保育の中で大切にいかしてゆきたいと思います。

【園長 東 重満】

 

松前紀男先生の訃報

1月6日の新聞各紙に 東海大学の学長や札幌コンサートホール・キタラの初代館長をお勤めになられた 松前紀男先生が死去されたことが報じられていました。

松前先生が学長をお勤めになられていた当時 私は北海道東海大学(当時)の芸術工学部建築学科の学生で硬式野球に打ち込んでいました。そのころ東海大学全体では 日本大学 慶應義塾大学に次いで私学としては日本で3番目のマンモス大学でしたが 旭川市にあったキャンパスは単科大学で学生も1,000人に満たないこともあり 教職員が学生の顔と名前が一致する稀有?な大学でした。

そして 松前学長自らが先頭に立たれて 建学の精神の起源にさかのぼり 大学改革を進めていました。

そんなこともあり 私は一学生でありながら松前先生から直接薫陶を受けて4年間を過ごすことができました。その後 松前先生の推薦もあり母校の職員として勤務することになりました。

学生時代から 私の実家が私学の幼稚園を経営していることをご存知でいらして 自らも付属幼稚園の園長を経験されていらした松前先生は ことある毎にリーダーとしてのあり様を教示してくださいました。

私が若いながら入学試験の東京会場の責任者として仕事を終えた時 最寄駅の近くの鰻屋でねぎらいと共に 語りかけられました。「東君 私はこれまで身近で優秀な人間が仕事からはなれなければならないということを幾度も見てきた。それは 異性 酒 個人的な金銭の貸し借り この3つのいずれかのトラブルが必ず絡んでいた… 十分注意する様にね。」

学長直々の計らいではないと思いますが 私が東海大学に勤務していた5年と1カ月の間に 野球部のコーチの仕事の他に 学務部の教務担当の枠を超えた重要な仕事をさせていただきました。

教務の基本である 時間割の作成 履修や成績認定 講師の委嘱 教員の業績管理などの他に 学生募集から入学試験の運営・判定業務 新設学部の設置申請と監査 会計検査院検査 経営戦略のリサーチと資料づくり などなど。そして 学生係と事務所が同じだったので 学生の深刻でデリケートな問題への対応…。

今の仕事の基礎になることを全てといって良いほど学びました。

こんなこともありました 「東君はラブレターを書いたことがないだろう? 君の文章には気持ちがこもっていない…」と様々な手紙や事務文章の書き方を 一から教えられました。

組織の大きさも質も全く違いますが トップリーダーの目標を自分の中に持てていることの幸せは 松前先生と共にさせていただいた時間が与えてくださった財産です。

天に召された松前紀男先生への敬慕の念を表して追悼といたします。

園長 東 重満

 

愛犬の死

11月の大雪が降った後 我が家のトイプードルがちょっとしたスキに逃げ出して(初めてのことですが)100メートルほど離れた保育園の玄関先にいるところを 学校に行く途中の長女が偶然見つけて連れ戻すという出来事がありました。

この犬は長女のたっての希望をかなえるために飼い始めた犬です。彼女はアレルギーがあって室内犬のいる家に行くだけで顔が腫れてしまっていたのですが 動物が大好きでどうしても自分の家でも犬を飼いたいといってききませんでした。当時 実家で柴犬を飼っていてなぜか実家やその犬には反応しなかったので 比較的に脱毛が少ない犬種を飼ってみることにしました。

実はこの犬を飼う理由がもう一つあって 実家で飼っていた柴犬が老衰で死んでしまい その柴犬と毎日散歩に出かけることが日課だった母の悲しみを癒す意味もあったのです。80歳を過ぎた母とタローが1日に数回ゆっくりとゆっくりと歩調をあわせて散歩する姿は ご近所の評判になるほどでした…。

実はこのタロー 二度と犬は飼わないと決めた両親の反対を無視して私がペットショップからもとめてきた犬でした。(つまり本当の飼い主はドンリュウ)しかし いざタローが家にきてみると私より父と母が可愛がり 間もなく実質的な飼い主は父と母になっていました。

先に父が他界した後も タローは柴犬の孤高さは残しながらも 絶えず母のそばに寄り添って生きていました。

そのタローが年老いて死んだ日 私は出張で札幌におらず 姉からの留守番電話への伝言で愛犬の死を知りました。そして 小学生から大学生になるまで飼っていたカメが死んだ時も実家をはなれて生活していたのでみとることができませんでした。いずれも いい大人になってはいましたが 私には本当に悲しくつらい思い出です。

最近 幼稚園でこんな出来事がありました。

自宅でちいさい頃から飼っていた愛犬が死んでしまい その悲しみをかかえたままで登園してきた年長の男の子がいました。あらかじめお母さんはそのことを保育者に伝えてくださっていたこともあったようですが だれの目にもいつもの◯◯◯くんではなかったようです。

見兼ねた安保先生が 「なきたいときにはないていいんだよ…」と語りかけたら 堰を切ったように いままでみたことがないほど大声をあげて泣きじゃくったそうです。そして しばらく経つと いつもの様子に戻って過ごしたようです。

その後も いつもながらのやんちゃさと 小さな子どもへのさりげない優さをみせる◯◯◯くんの様子が 保育記録で報告されています。

人間は幼児期(4、5歳)から死生観が芽生えます。自分はどんな存在で いずれどうなるのか…。生きるということ 死ぬということはどうゆうことか…。

小さな子どもがそんなことを… なんて絶対大人は考えてはいけません。子どもの不安や疑問をきちんとうけとめ 真面目に向き合うことが大切です。

子どもは幼いながらも 身近な動物や人の死を通して 何かを感じとり 自らの死生観をかたちづくっています。

そうやって 子どもは人間として育ってゆくのですね。

 

呼称

ここに書くことは本当にドンリュウの独り言…

理事長は理事会が認めれば就任できる。おまけに言えば銀行(経営者として問題なければ)が認めれば誰でもなれる。では園長は…。手続き上では行政が定めた基準(教員免許や一定の勤務経験)があれば就任することはできる。けれどほんものの園長にはそれだけではなれない!(勘違いしている私立幼稚園の後継者もいるけれど…)

この秋 就任して年数が経たない二人の若い園長に再会しました。二人とも上越教育大学大学院時代の同期生。ドンリュウより10歳以上若いけれど…。

二人は前任の園長(父親)からバトンを引き継いだ後継者です。けれど就任まで修士課程を終えて10年以上の月日の中で実績を重ね 子どもと地域に根ざした幼児教育への深い思いを醸成させてから園長に就任しました。山形と熊本 美晴幼稚園とは全く違う環境の中で 伝統を継承しながらも現代ならではの課題を直視し 自らの幼児教育像を描いてその実現に格闘しています。

二人とも素敵な園長であることは それぞれの園の子どもたちが園長に向けるまなざしと思いでわかります。それは「敬愛」に満ちたものだからです。子どもがなぜ そのような思いを寄せるのか…。それは 真剣に子どもたちをみつづけ 理解し 子どもたちと保育者 保護者のために力を尽くしているということが 理屈ではなくわかるからでしょう。

ドンリュウもそのような園長でありたいと念願します。

そう ほんものの園長は行政の基準を満たしているからなれるものでも 自分からなりたいと思ってなれるものではないのです。

「えんちょうせんせい」という呼称(敬称)は重いものです。

少し前 美晴で若い保育者が子どものことを間接的にではありますが呼び捨てにしていることがあったので その日の職員会議で美晴ではどんな状況であっても 直接・間接問わず 絶対に子どもを呼び捨てにしない様 確認しました。

互いに親しい関係にあるから 呼び捨てにできる というのは大きな勘違・間違いだと美晴では考えます。

なぜなら ”全力でいまを生きている” 子どもを呼び捨てにはできないはずです。 子もと大人ではなく 私たち大人が一人の人間として子どもとどう向き合うか…。

私は 子ども大人関係なく いまを全力で生きている人間を尊敬します。だから まさに 未来に向かって”いま”を懸命に生きている美晴の子どもを呼び捨てにすることは断じてできません。

だから 単なる呼称ではなく ◯◯ちゃん ◯◯くん と敬愛の念をこめて呼ぶのです。(それは お客さんだから 利用者様だからではありません)

こんなこともいえるでしょう。年若く保育者としてまだまだ未熟な職員を 親しみをこめて「◯◯せんせい」と子どもも保護者も呼んでくれるのは 若くプロとしてはまだまだ至らなくとも 子どものために全力を尽くしていることが伝わるから 「先生」なのでしょう。

実は 昨日 熊本の同期生の園長先生の結婚式に 尊敬する恩師と目標とする幼稚園の園長先生 そして 宮城の公立学校で活躍している後輩と共に出席させてもらいながらそんなことを考えていました。

園バスの運転

先週から2回ほど 帰りのバスを運転しました。(これからも運転するかもしれません)

毎年 たま〜に添乗をして 通園バスでの様子をみたりするのですが 今回は運転する機会があったので 添乗している先生と子どもたちのやりとりなんかを 運転しながら聞き感じていました。

昨日(9日)は 赤・青バスを運転し 添乗は佐藤先生でした。

子どもたちは佐藤先生とのクイズが楽しいようで 年少のお友だちも張り切って答えていました。

バス停で待っているお母さん方は運転が園長がしていることに気づくとビックリされますが 子どもたちは通園バスの運転は珍しいので喜んでくれます。(ガリバーのバスは運転しているのにね)

そういえば 今日明日のカリバーは雨と低温で難しいかなぁ…。

園長の仕事

今日 10月に山形市で行われた東方地区教員研究大会の教員免許状更新講習の試験答案の採点を終え 今年度の免許状更新講習の講師の仕事が終わりました。

平成22年度に教員免許更新制が本格実施される前から 全日本私立幼稚園幼児教育研究機構の立場から幼稚園教諭のこのことにかかわり その縁?で今でも年にいつくかの講座を担当させていただています。

免許更新講習では試験が必須となっていて 講座開設者が定める基準に達しないと講座の修了証が発行されません。つまり受講者全員が真剣に試験問題の答案を書きます。

毎回 35歳 45歳 55歳を迎える(10年毎の更新なので)受講者の答案には その経験の豊富さもあって 講師の私の方が学ぶことがたくさんあります。もっと言えば こころ震わせながら(感動しながら)採点させてもらうことが多々あります。

東京での政策に関する必修講座 北海道での砂場を取り上げた選択講習 そして 山形での公開保育を参観し保育記録をテーマにした選択講習 いずれにおいても ほとんどの受講者が出題者である私の意図をはるかに凌ぐ答案をよせられました。その中に 非力だった新任のころから現在までの自らの保育を謙虚に省察して 十分力量をそなえた今なお真摯に明日の保育にのぞもうとする保育者ばかりであることに 大げさにいえば 日本の保育の水準の高さを実感し 美晴幼稚園もさらに努力し続けなければならないと心をあらたにします。

それから 今年度に入り 文部科学省の障害者差別解消法ガイドラインの検討委員会 子ども子育て支援新制度の所管三府省(内閣府 文部科学省 厚生労働省)が検討を進めている 教育・保育施設等の重大事故防止ガイドライン策定の委員会の委員の仕事をさせていただき 今月末からは文部科学省が10年ぶり改訂する (幼稚園、)小・中・高等学校等における発達障害の可能性のある児童生徒等に対する支援体制整備ガイドライン策定に関する検討会の委員の仕事をさせていただく予定です。

いずれも 全日本私立幼稚園連合会や研究機構から推薦され 私立幼稚園である美晴幼稚園の園長の立場で仕事をさせていただいています。その全てにおいて 美晴幼稚園での経験に基づきながらも それぞれの会議では現場から参加している委員は私一人であることが多いので 小学校就学前の幼児教育・保育の実践現場に身を置く立場全体を意識して発言するように心がけています。

これから始まる 発達障害の可能性のある児童生徒等の支援体制整備のガイドラインでは はじめて幼稚園における内容が示されることになっているので 責任の重さを実感しています。

教員免許状更新講習の仕事も 国の検討会議の仕事も その様な機会を与えていただけることに感謝しながら 関係する人々 特に子どもたちにとって意味あるものになるように全力を尽くしています。その過程で素晴らしい出会いがあり多くの知見や見識に触れ そのことが自らの力となり 美晴幼稚園の保育になんらかのかたちでいかされています。

その様な仕事は幼稚園を留守にすることになってしまうのですが 美晴幼稚園の園長としての大事な仕事でもある と考えています。

そして その経験を 自分や自分の園ばかりでなく 地域にシェアできるうように心がけてゆきたいものです。

 

ぶんかくんしょう

今日は文化の日。昨日 幼稚園では帰るまえにホールで文化の日の集会をしました。

逢坂先生から文化の日にちなんだお話を聴いて それぞれの学年グループで制作したおもちゃを代表のお友だちに紹介してもらいました。

年長は「動くシャボン玉」 年中は「ストローを使って飛ばす飛行機」 年少は「ぴょんぴょん跳ねるカエル」…。

文化とはみんなが幸せに暮らすための価値観に基づいた行動様式。

幼稚園では 子どもたちみんなに折り紙で折った紫色のぶんかくんしょうがかけられまいた。

集会では 園長にひときわ大きく金の折り紙で折られたぶんかくんしょうがおくられました。

以前 このブログにも書きましたが 先代の園長時代からのこの「ならわし」にひところは少し違和感を感じていました。しかし 園長に就任して数年が経過し 子どもにとって望ましい保育環境をつくろうとすればするほど運営というか経営が厳しくなる現実に直面して この一年に一度 子どもたちから贈られる「ぶんかくんしょう」がなによりの励みであることがわかりました。きっと先代の園長である父も同じ気持ちだったのだと思います。

集会で「えんちょうせんせいはようちえんにとってどんなひと?」との問いかけに「ようちえんをまもってくれるひと」「ようちえんのことをかんがえてくれるひと」と答えてくれた子どもがいました。

そんな子どもの声は励みでありプレッシャーでもあります。

そう このぶんかくんしょうは 贈り物でもありますが 子どもたちからの激励の象徴。

 

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帰りバスの運転中も 幼稚園に帰ってからもしばらく くんしょうをかけていました。

はずかしさと うれしさと おもさ を感じながら折り紙製の勲章をかけている50歳を過ぎたおじさんの気持ち わかってくれというほうが無理ですよね。