呼称

ここに書くことは本当にドンリュウの独り言…

理事長は理事会が認めれば就任できる。おまけに言えば銀行(経営者として問題なければ)が認めれば誰でもなれる。では園長は…。手続き上では行政が定めた基準(教員免許や一定の勤務経験)があれば就任することはできる。けれどほんものの園長にはそれだけではなれない!(勘違いしている私立幼稚園の後継者もいるけれど…)

この秋 就任して年数が経たない二人の若い園長に再会しました。二人とも上越教育大学大学院時代の同期生。ドンリュウより10歳以上若いけれど…。

二人は前任の園長(父親)からバトンを引き継いだ後継者です。けれど就任まで修士課程を終えて10年以上の月日の中で実績を重ね 子どもと地域に根ざした幼児教育への深い思いを醸成させてから園長に就任しました。山形と熊本 美晴幼稚園とは全く違う環境の中で 伝統を継承しながらも現代ならではの課題を直視し 自らの幼児教育像を描いてその実現に格闘しています。

二人とも素敵な園長であることは それぞれの園の子どもたちが園長に向けるまなざしと思いでわかります。それは「敬愛」に満ちたものだからです。子どもがなぜ そのような思いを寄せるのか…。それは 真剣に子どもたちをみつづけ 理解し 子どもたちと保育者 保護者のために力を尽くしているということが 理屈ではなくわかるからでしょう。

ドンリュウもそのような園長でありたいと念願します。

そう ほんものの園長は行政の基準を満たしているからなれるものでも 自分からなりたいと思ってなれるものではないのです。

「えんちょうせんせい」という呼称(敬称)は重いものです。

少し前 美晴で若い保育者が子どものことを間接的にではありますが呼び捨てにしていることがあったので その日の職員会議で美晴ではどんな状況であっても 直接・間接問わず 絶対に子どもを呼び捨てにしない様 確認しました。

互いに親しい関係にあるから 呼び捨てにできる というのは大きな勘違・間違いだと美晴では考えます。

なぜなら ”全力でいまを生きている” 子どもを呼び捨てにはできないはずです。 子もと大人ではなく 私たち大人が一人の人間として子どもとどう向き合うか…。

私は 子ども大人関係なく いまを全力で生きている人間を尊敬します。だから まさに 未来に向かって”いま”を懸命に生きている美晴の子どもを呼び捨てにすることは断じてできません。

だから 単なる呼称ではなく ◯◯ちゃん ◯◯くん と敬愛の念をこめて呼ぶのです。(それは お客さんだから 利用者様だからではありません)

こんなこともいえるでしょう。年若く保育者としてまだまだ未熟な職員を 親しみをこめて「◯◯せんせい」と子どもも保護者も呼んでくれるのは 若くプロとしてはまだまだ至らなくとも 子どものために全力を尽くしていることが伝わるから 「先生」なのでしょう。

実は 昨日 熊本の同期生の園長先生の結婚式に 尊敬する恩師と目標とする幼稚園の園長先生 そして 宮城の公立学校で活躍している後輩と共に出席させてもらいながらそんなことを考えていました。