子ども同士で育ちあい

子どもが、教師(保育者)の力を当てにせず、自分の力で育てるようになることは非常に喜ばしいことです。これから、「子どもの遊び」が何故大切なのかをみていくことにしましょう。このブログでは、底辺に「子どもの遊び」の大切さをちりばめています。回を追ってそのことに触れていきます。今回は、「子ども同士の遊び」の持っている教育的意義について触れてみたいと思います。

子ども同士で刺激しあって育てるようになることは、「乳幼児教育」の目指すところでもあります。でも、教師(保育者)は、子どもに本来備わっている能力を信頼できずに、「指導」してしまうことが多いものです。たとえば、「遊び」に加わり、仲間で遊ぶことが良いと教師(保育者)が思い込んでいる時に、よく「遊びに入れて(よして)、と言わなくっちゃいけないよ」等と言ってしまいがちです。倉橋惣三も「一点の厳粛味」という言葉を通して、子どもに対する「保育者の心構え」と「保育者の指導」について述べていますが、上記の例のような「指導」を意味しているわけではありません。この倉橋惣三の「一点の厳粛味」については、次回以降に述べたいと思いますが、今回は子ども同士の「遊び」の誕生場面を通じて、子どもの「さながらの遊び」の姿をあ味わい、具体的な事例の場面から、その意味と指導について学んでみたいと思います。

まだ充分に友だちと一緒に遊べないと思われるような子どもが、他児を目にしながら、しきりに壁にプレートを押し当てて、しばらくじっとしていて、「チン、美味しいケーキができあがりました。どうぞ、食べてください。」と突然、他児に働きかけることがあります。そうすると、そう言われた他児が「いただきまーす。」と言って、食べるまねをするというようなことに出くわすことがよくあります。これは、まさに友だちとの遊びの初めての成立過程です。他児も壁の同じ部分に押し当てて、「チン、アイスクリームができました。」と続けます。この時には、この二人の間には、すでに「壁」を電子レンジに「見立て」て、できあがったものについてのイメージを共有しているのです。ごっこ遊び等、友だちとの遊びに必要な「みたて」「みなし」「ふり」などのイメージを媒体にした能力を獲得しているのです。ですから、保育者がよく言う台詞(セリフ)である「(遊びに)よしてほしい時は、「よして」と言いなさいよ」というものは必要ないばかりか、子ども同士の育ち合いの実際を妨げることすらあるといえましょう。子どもたちに必要なのは、言葉だけでなく、体験を伴った子ども同士の関係そのものなのです。

つまりこの時点においては、「社会的微笑み」から「いないいないばぁ」などで芽生えるようになった「期待」「(結果の)予想」「予期したことの安堵(確認)」といった乳児期からの精神的な育ちを、幼児期になってより複雑なものとして、精緻な形に育っているということになります。これらは、多分に他者(他の子どもや保育者)との関係の中で育っていくものです。これが、ここでいう「子ども同士の育ち合い」ということになるのです。「3歳になったら幼稚園」という標語は、子どもたちの成長の必要性(他者との関わりが活発になり、その中で子どもたちが「子ども同士で育ち合う」)という成長の節目であることを述べたものなのです。倉橋惣三のいう「一点の厳粛味」は、ここに隠されている大切な保育者としての「心構え」なのです。「自発協同学習」の大切さも倉橋惣三と同次元でチェックするべきものなのです。