8月2017

中型動物飼育の必要性

園内飼育環境を考える際、通常は動物は何を飼えばよいか」とか、「どのような飼い方がよいか」などを小型の動物という範囲で考えてしまうことが多いといえます。でも、子どもたちが小型飼育動物を飼う際のことを考えれば、子どもにとって、「同じ園での育ちあい仲間」とか「生活協同体(ともに育っている、ともに生活している)とする」視点の育成には繋がる余地が少なく、動物たちを「ペット」扱いしてしまう危険性がおおくなるといえます。

 

私の過ごした「幼稚園」は、近所の人たちから親愛を込めて、「動物園」とか「植物園」と呼ばれていました。そんな「動物園」・「植物園」で「遊んだ」子どもたちは、そうした環境の中で何を「学んだ」のでしょうか?そこには、子どもたちが「さながらに」生きる生活があるのです。その一端を見ていきたいと思います。

 

★「動物園」と呼ばれた「幼稚園」

①小鳥の世話→鳥小屋は保育室ほどのスペースで、鳥(烏骨鶏、鶏、アヒル、鴨、セキセイインコ、ヒイインコ、ナナクサインコ、そしてスズメ(子どもが鳥小屋を開けるたびに飛び込んだ))がいます。デッキブラシで水槽を掃除しての水替え、糞の世話、エサやりを「やりたい子ども」が、当番活動ではなく「自分の意志」で行います。他の遊びや活動の行動選択と同様に「子ども自身」が「自発的(主体的)」に行うわけです。鳥小屋から飛び立ったインコ類は、その時刻になると野鳥として鳥小屋に覆い被さっている楠に飛来し、子どもたちからエサをもらう、という妙で一見変わった現象が生じます。いわば、「野鳥のエサやり」です。インコたちも郷里を忘れずに戻ってくるのです。子どもたちも同じで、我が園を巣立った鳥たちに対しても「思いやり」を呼び起こします。その関係性には、とても深くて幅広いものがあります。

②ヤギやブタ→サークル内で飼育している「ヤギ」や「ブタ」の住居位置はどんどん変わります。とくに春先には、通用門の子どもたちが園へ入ってくる動線上に「子どもを邪魔するかのように」配置されます。これには、大きな理由があります。子どもたちは、どうしても園へ入ってくる途中にそうした動物たちに目をやらねばならない状況が創り出されます。通用門の前で毎年繰り広げられる光景(主人公の新入園児が、「帰る~」「いやや~」など心理的なストレスが最高潮に達した状況)があります。新入園児がふと見ると年長児たちが平然と動物たちにエサをやっています。それに見とれて、自分の状況を放念する新入園児になってしまいます。そうした中で突然、年長児が「あんたもあげる?」とキャベツを手渡されると、こわごわヤギの口へエサを持っていきますが、ヤギが食べようとする瞬間に手放してしまい、落ちたキャベツをヤギはムシャクシャと食べてしまいます。その時には、新入園児は我を忘れてしまっています(いわば保育をする「保育者」ならぬ、保育をする「保育ヤギ」がストレス状況にある新入園児の保育を行い、無事にストレス状況を乗り越えさせてしまうのです。ここにおいて「保育ヤギ」が登場するのです)。この時にはもう、新入園児は通用門の中に入り、つい先ほどまで泣き叫んでいた「自分を忘れて」心理的ストレス状況を乗り越えてしまいます。これらは、子ども自身の「自発的(主体的)な」行動の結果として現れてくるのです。ヤギやブタ等の動物に接する際に、子どもたちは、知識をフル動員し、智恵を絞り出し、工夫に努力し、そしてやっと心が揺り動かされる体験をしていくのです。動物に対する「思いやりの心」は、こういうところからスタートします。なぜなら、新入園児たちは、この困難な状況で救ってくれたヤギに心を許し、安心してヤギとの生活が始まるからです。子どもたちのこうした体験抜きで、単純な「(保育者などからやらされる(子どもの自発的(主体的)でない)ような)当番活動」を機械的にやらせるような保育では、ヤギなどの動物たちとの共感的理解をするチャンスに恵まれることはほとんどないでしょう。

③ヤギの首やブタの毛で→ヤギの飼育は、子ども「自発的(自主的)な」活動の中で毎日続けられます。そんなある日、ヤギの首に抱きついた子どもは突然、「ヤギさん、暖かいわ~」と叫びます。まさに命のぬくもりを体感した瞬間です。中型動物の良さは、子どもが全力投球で接する必要があるのと、場合によっては友だちと力を合わせて何本ものリールをつけて公園まで散歩に連れて行く必要がある点にあります。小さな動物では、「一緒に生活している」という体験のできるチャンスに乏しく、「ペットかわいがり」で終わってしまう危険性すらあるのです。そうなると、「命の尊厳」や「思いやり」に対する、子どもの心の動きは期待しにくいものになります。

こうしたことは、ブタとの生活の中でも違った体験として子どもたちは遭遇します。「ブタは臭くて汚い」などというおとなの偏見の中には、子どもはいません。ブタにホースで水をかけてあげると、ブタはかゆい所にホースの水がかかるように体の方向を変えます。ブタは、このようにして自分の心や気持ちを子どもたちに伝えているのです。それに気付いた子どもは、ブタに「ここがかゆいんだろ!」とデッキブラシの位置を変えてこすってやります。ブタは神妙にじっと気持ちよさそうにします。ブタは「臭くなく、綺麗好き」に変わる瞬間です。「ブタは臭くて汚い」という言葉を知る前に、子どもたちは「ブタは気持ちを持っていて臭くなく、綺麗好き」を体感してしまうのです。

「運動場」と「園庭」の違いから環境を考える

小学校以上の施設では、「運動場」というものがあります。それに反して、幼稚園や保育所では、「園庭」といいます。その理由から、両者の違いを整理し、「教育環境」の構成の違いに言及しましょう。

小学校以上で「運動場」と言うからには、そこでは、「運動」のしやすい環境である必要性があります。ずばり述べますと、高低差や池などの環境よりも、「広々としていて邪魔になるものがない環境」ということができます。つまり、起伏よりもトンボなどでならされた水平な地面が必要ということになります。まるで、毎日「運動会」ができる空間ともいえるものです。

これとは違って、幼稚園や保育所でいう「園庭」には、高低差があり起伏やくぼみのある変化に富んだ「環境」が重視されています。これは、そこにいる子どもの発達特性や発達過程に大きなつながりがあります。

子どもたちが山に登り、そこから、あらためて日常見ている世界を見ることによって、その子どもにとって新たな発見をし、気づくことのできる「環境構成」であるということができます。また、「山の上から水を流す」などによる「遊び」を行う中で、「水は高いところから、低いところへと流れる」というおとなにとってはあたりまえの常識を「学ぶ」ことになります。そのような時には、短く切った樋などがたくさんあれば、子どもたちは工夫し、協力しあって「遊び」の中でさまざまな人生に必要なことを「学んで」いきます。

さらに「園庭」の「くぼみ」に生き物が生息していると、そうしたものへ、子どもたちは、気持ちを向けていくチャンスに恵まれます。こうしたように、幼稚園や保育所にいる子どもたちのことを考えると、「広々していて平坦な運動場」よりも「さまざまに起伏や変化や生き物たちの生活のある園庭(場合によっては草が自然に生えているような園庭)」がより重要で必要なものになるといえましょう。

子どもの動線から考える保育環境

子どもたちの成長・発達にとって「遊び」が非常に大切なものと多くの研究者や実践者たちは考えています。でも、子どもたちの「遊び」環境を考える際に、子どもそれぞれの「遊び」が互いに干渉しあって成り立っているということを明確にしている人は非常に少ないと言えます。ただ漠然と「遊びが大切である」というばかりです。その「仕組み」や「なぜ、遊びが子どもたちの成長・発達に欠かせないばかりか、重要なものである」ことを明確にしきっていないといえましょう。

今回は、子どもたちの動きの「動線」から「遊び」に不可欠な「保育環境」を分析したいと思います。

幼児教育(保育)にあたる保育者として、最低限押さえておかなければならない事項で、「幼児教育環境(保育環境)」を考える時には欠かすことのできない視点です。

たとえば、公道上を自動車が走る際に、交差点にどのような「信号」を設置し、「交通整理」を行い、事故を未然に防ぎ、よりスムーズに各自動車が運行できるようにするか、ということに近いものがあります。

それでは、より具体的に私が幼稚園の園長をしていた際の事例で考えてみたいと思います。その当時は、廊下が開放廊下になっていたため、子どもたちは「どこからでも出入りが自由に行える状況にありました。いわば「動線」は自由に描けますが、衝突や事故、あるいは「遊び」のスムーズな展開にはあまり好ましくない状況」だったわけです。「遊びの保育」を行うためには、「動線」の「交通整理」をする必要があったわけです。それでその一部を自由に出入り(表向きは、子ども保育室から園庭への出入りは「自由」)できないようにするため、重い重量のプランターを置いて、花や四つ葉のクローバーを植えるようにしました。もちろん、プランターですから、子どもたちと一緒に、季節の花々の栽培も始めました。これは、子どもの動線上で子ども同士は衝突することを防ぐ目的と動線の自由な利用の中で、子どもたちの動線を整理する意味合いがあったといえるでしょう。もちろん、花々の栽培による教育効果も考えざるを得ない状況にもなったわけです。

これにより、子どもは、自分の行きたい方向にあたかも自由に行動していますが、子ども同士で衝突したり、動線の邪魔をしあったりすることはないようになりました。そればかりか、自分(自分たち)以外の「遊び」をしている他の子ども(子どもたち)のことを、子ども各児が考え始めるきっかけにもなりました。そして、互いの「遊び」を尊重しあって「遊べる」ようになっていきました。子どもたちに「思いやり」の気持ちも生まれていったということができます。

このように子ども遊びの「動線」から「幼児教育(保育)環境」をとらえて、「プランター」を置くといった単純な保育作業だけで、子どもたちが「遊び」をとおしてさまざまな力(生きる力)を伸ばしていったわけです。「動線」で「幼児教育(保育)環境」を考えるという、ほんのわずかな観点だけで、幼児教育(保育)は、ずいぶん変わっていくのです。