2月2017

3歳になったら幼稚園

  1. 法令で見てみると、「幼稚園教育要領」(幼稚園教育の根幹を国が定めているもの)の根拠法である「学校教育法第22条」に「幼稚園」に関する規定が定められており、ここに「3歳から小学校の修学をむかえるまでの「幼児」を預かる『学校』」という規定があります。さらにいうならば、「学校教育法」は、「教育基本法」(昭和22年)に論拠があるのです。
  2. 「乳児」(法令でいう「乳児」とは「児童福祉法第4条」に基づくと、「満1歳に満たない者」と定められています。これは、この法律には「保育所」の規定(第39条)があり、児童福祉を定めた唯一の法律となっています。「児童福祉法」は、さらに中核となる「社会福祉法」(昭和22年)にその論拠があります。)さらに、「児童福祉法」では、18歳に満たないそれ以上のものを「児童」(第4条)と規定しています。「児童福祉法」による年齢区分ですと、「児童(18歳未満のもの)」がその対象とされますが、通常「保育所」には、「小学校に就学するまでのもので、親の就労等により保育に欠ける者」が保育所という『施設』の対象児(「乳児」または「幼児」)になっています。

ここまでをまとめると、「幼稚園」とは、『学校』であり、「保育所」とは、『児童福祉施設』ということになります。

「保育所」は『乳児』『幼児』を保育する「施設」ですが、『乳児』は産休(生後8週間)明け以降で満1歳になるまでの子ども、『幼児』は満1歳以上小学校入学(満6歳以後の最初の4月という学校教育法によるので、6歳数か月)までという年齢幅があります。

「幼稚園」は満3歳より小学校に就学するまでの『幼児』を「教育」する「学校」です。したがって、「全日本私立幼稚園連合会」はキャッチフレーズとして、「幼稚園は子どもたちが初めて出会う『学校』です」という言葉を使っているのです。

 

 

  1. 子どもの成長で「乳児」「幼児」考えると次のようになります。

子どもの成長は、「遊び」を考えると理解しやすいです。「遊び」で考えると、「乳児」とは多くの場合、「実物」を使って遊ぶ子どものことです。たとえば、「唇」を使って、「バブバブ、ブルブル、ブブブブ」など「唇遊び」をし、唇の感覚・感触・操作の方法などを学びます。発達心理学者のピアジェなどは、この特徴を捉え、「感覚運動遊び」ということばを使っています。これに対して、「幼児」とは「間」を使って遊ぶことのできる子どものことである。「「人間」「空間」「時間」などに「間」があり、「幼児」はそれらで遊ぶことができるという点で、「乳児」とは異なっています。つまり人や物との関係の中で、時間軸でその関係を把握して行動することができるということです。たとえば、「予測する」「推測する」「期待する」といった行動が可能になります。これらの能力を利用して、同時に「言葉を介在したイメージを使い遊ぶ」ことができます。その特徴を捉えて、先述のピアジェなどは「象徴遊び」ということばを当てているくらいです。その頃には、「幼児」は盛んに、「みたて」「ふり」「みなし」を伴った「イメージの共有できるごっこ遊び」等をすることが多いです。「幼児」が、「ごっこ遊び」の中で「予測する」「推測する」「期待する」「イメージを(友だちと)共有する」能力を伸張させます(成長します)。したがって、この時期の「幼児」の特徴は、「遊び」の中で「「現実」と「イメージ」を共存」させて遊ぶことができるという発達時期特有の特性を持っています。

このように考えると、「乳児」を「幼児」に育てるためには、「みたて」「みなし」「ふり」といった「イメージ」とそれを生じさせる子どもの能力(たとえば、お母さんは次にどうするかを考えて、時間の先を「予測」したり、「推測」したり、「期待」する力)を育てる必要があるといえましょう。

「幼児」に食べ物に「みたて」た「砂」に対して、おとななどが「美味しいよ」と投げかけると、幼児なら「本当だね。美味しい、美味しい。」と受け応えをしてくれます。しかしこのことは児童期になるとやがて失われます。児童(「学校教育法」による学齢に達した子ども(=小学校に通うようになった子ども))になると、「おじちゃん、馬鹿だね~。砂だから食べられないよ。美味しくもない!」とあっさり返されてしまいます。これは、「嘘っこだけど、美味しいんだ」という気持ちがなくなってしまい、すでに「イメージと現実」を共存させて遊ぶことが必要なくなった(遊べなくなった)子どもの姿になります。もちろん、子どもは成長しているのですが、おとなに一歩近づいた悲しい姿でもあります。

 

このように考えてくると、「幼児」を「児童」へ成長させるには、「予測」に基づいて、「期待(こうしたい、ああしたいという)」を持って、「計画(こうしよう、ああしようという)」する力を育てる必要があります。子どもを成長させるためには、「遊び」が大切であり、各発達期を十分に充実させて過ごさせる必要があるといえましょう。ここで説明のために、発達心理学者のピアジェやワロン等を取り上げていますが、けっして特殊な事物(遊具や教具)だけで子ども成長をはかれるものではないといえましょう。

 

とくに3歳になったら、「他児」(「友だち」とか「他人」)の存在が大切なものとなります。他児との遊びを通した「やりとり」の中で、子どもたちはさまざまな事柄を「学んで」いくのです。その意味で、「3歳になったら幼稚園」というキャッチフレーズは3歳頃の子どもの成長には「他児」が欠かせない点を言い表しています(法律もちゃんとこの点を踏まえているかのようです)。

 

 

「豆腐づくり」より「納豆づくり」

.............................................................................................................................................納豆 写真 ..............................................................................................................................................豆腐 写真

日本の教育においては、「個人(一人)」より「集団」が先行することが多いと言えます。

よく電車の中などで、「そんなことしていたら、おじさんに笑われますよ!」という台詞がよく見受けられます。これは、まったく「個人(一人)」を押し殺して、他人の目を気にする態度を身に付けさせてしまいます。こうした教育は、同じ原料から作られる「納豆」と「豆腐」に例えられるでしょう。

ご存じのように、「納豆」は、大豆を納豆菌によって発酵させた日本の発酵食品のことです。いろいろな種類が存在しますが、現在では一般的に「糸引き納豆」を指すことが多いです。他方、「豆腐」は、大豆の搾り汁(豆乳)を凝固剤(にがり、その他)によって固めた加工食品です。豆富や豆冨とも表記されます。東アジアと東南アジアの広範な地域で古くから食され続けている大豆加工食品で、加工法や調理法は各国で異なりますが、このうち日本の豆腐は白く柔らかい食感を持つ「日本独特の食品」として発達しました。

つまり、「納豆」と「豆腐」は原材料は同じものですが、製作方法が異なって、まったく違う食品になったものです。これは、教育に例えることができます。「納豆」のようにもともとの「大豆」の形を残しつつ、お互いが違った形をしていても、互いに引き合い、「粘り」という人間関係を結んでいる教育場面でのほほえましい状況と同じと言えましょう。他方、「豆腐」とは、「大豆」を原料としながらも、原型を留めないように加工されて、できあがった食品です。子どもの教育の世界で言えば、子ども「個々」の個性を残しているのが「納豆」、子どもの「個々の」個性は押しつぶされて、クラス全体として「形」をなしているのが「豆腐」だと言えましょう。

つまり、「子どもを教育すること」に話を戻しますと、「ひとりひとりを大切にする教育」とは言うものの、「同一性保持」(他人と同じように振る舞うこと、人と違ったことをしない)への圧力が知らず知らずに働いていることが多くあります。「みんなと同じように・・・」とか、「みんなと仲良くして・・・」といったように、「個人(一人)」は、まるで「集団」のために「同一化」せよと言わんばかりに取り扱われます。「個人の個性」は、「摺り下ろされて」、原型をとどめないようにして「集団」に同化させられていくのです。まるでその様子は、「豆腐づくり」に似ています。

「個性を尊重し」、「個を生かす」保育者のいる環境においては、「個人(ひとりひとり)」の「持ち味(個性)」を生かした形での集団(クラスなどの)形成が可能になります。いわば、「豆本来の」「個性を生かして」(子どもひとりひとりの形を維持・保持・向上を目指して)の「納豆づくり」の形状を成します。

「集団」の中で、競わせるようなことなどをさせて、「ひとりひとり」が「磨り減る」ような状況を作らず、「納豆」のように「お互いがお互いの形状を大切に保持しながらも引き合う(尊重し合う)」関係を形成すべきです。「同一性保持」への圧力を払拭したいものです。

これからの日本の教育においては、「集団」より「個人(一人)」を先行させ、子どもたちが自発的・自主的・主体的にものごとに関わり、子ども同士がお互いに相手を尊重し合える中で、成長していけるような方向性を持ちたいものです。『世界にひとつだけの花』の歌のようになりたいものです。

 

 

 

 

 

世界に一つだけの花』作詞・作曲・編曲/槇原敬之、著作権者(作詞・作曲・編曲以外)/ジャニーズ出版、2002年(平成14年)。JASRAC許諾、第J090816598号。

 

花屋の店先に並んだ  いろんな花を見ていた

ひとそれぞれ好みはあるけど  どれもみんなきれいだね

この中で誰が一番だなんて  争うこともしないで

バケツの中誇らしげに  しゃんと胸を張っている

 

それなのに僕ら人間は  どうしてこうも比べたがる?

一人一人違うのにその中で  一番になりたがる?

 

そうさ 僕らは  世界に一つだけの花

一人一人違う種を持つ  その花を咲かせることだけに

一生懸命になればいい

 

困ったように笑いながら  ずっと迷ってる人がいる

頑張って咲いた花はどれも  きれいだから仕方ないね

やっと店から出てきた  その人が抱えていた

色とりどりの花束と  うれしそうな横顔

 

名前も知らなかったけれど  あの日僕に笑顔をくれた

誰も気づかないような場所で  咲いてた花のように

 

そうさ 僕らも  世界に一つだけの花

一人一人違う種を持つ  その花を咲かせることだけに

一生懸命になればいい

 

小さい花や大きな花  一つとして同じものはないから

NO.1にならなくてもいい  もともと特別なOnly one