根城(ねじろ)教育論

「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」という言葉は、丸大ハムが1970年代にコマーシャルで使いました。登山にでかけた親子がたき火の横でむしるようにナイフでハムを切り、切ったハムをたき火にかけるというものでした。当時の流行語になったものです。この子どもを「わんぱく」に育てる秘訣を考えてみたいと思います。

幼稚園・保育所・こども園などの集団保育施設に通い始めた子どもに欠かせないものがあります。それが、「根城(ねじろ、a base (of operations))」です。「根城(ねじろ、a base (of operations))」とは、言い換えれば「心の基地」とでもいえるものです。周りの時間や空間から隔絶した状態で、自分自身の「思い」や「意図」を密やかに実現できるところです。子どもが初めて訪れた時に、「自分のやりたいこと」を行って、「しめた。面白かった。また、やりたい。(ある種の「成功体験」)」と心に刻めた場所です。ですから、そこへ行けば、「またやることができるぞ!」と密かに喜べて安心できるようになっているところです。ですから「心の基地」と述べたわけなのです。子どもたちは、「根城(心の基地)」を中核にして、場を拡大していきます。「これもやってみよう」「あれもやってみよう」「これを遣うとどうなるの?」「あれならどう?」というように、ひとつの「好奇心」から始まってさらなる「好奇心」へと心の世界も広げるのです。

ここで話はかわって、乳児の時期の寝返りを打つことができる以前の子どもを思い出してください。その頃、あなたのお子さんには、どのような遊具を与えていましたか?

高価な「ツリメリー」ですか、それとも廉価な「ガラガラ」でしたか。音が出て、目を楽しませてくれるという点では、同じような遊具のように思います。リッチな皆さんは、高価な「ツリメリー」だったかもしれません。でも、ここでは価格の高低で判断しないで、「心理的な」あるいは「行動形成的な」側面より考えてみたいと思います。

「ツリメリー」の操作は誰が行うのでしょうか?たいていの場合は、おとなである親が操作し動かすことが多いものです。すると成長の主人公である子どもはどのように楽しんでいるでしょうか?ツリメリーが楽しくなる音とともに、グルグルと回って目を和ませてくれます。でも、子どもの楽しみは受け身(観て楽しませてもらう)になります。

一方、「ガラガラ」ではどうでしょうか?おとなが「ガラガラ」を揺すって、楽しませてやることもあります。でも、違ったことも起こることがあります。枕元に偶然置いた「ガラガラ」にバタバタさせている子どもの手が偶然当たり、「ガラッ」と音が立つ場合があります。それをきっかけにして、子どもは「自分の手とガラガラの因果関係」に気づくことがあります。そして、まだ充分に使えない自分の手で「ガラガラ」を握って揺するという行為に挑んでみるようになります。そして、自分が揺すってみると、「ガラガラ」と自分の生み出した音を聴き、楽しめます。これは、一種の成功体験で、再度チャレンジし、また自分の生み出した音で楽しみながら、その因果関係を確実に認識するようになります。

このように考えてくると、廉価な「ガラガラ」ではありますが、高価な「ツリメリー」より勝る成長を子どもにもたらします。子どものこの体験のことを、昔ある学者が「世界を変えたという体験」と大げさに表現したことがありました。

さて、話を戻しましょう。「根城(ねじろ:心の基地)」の話です。幼い頃より上記の「ガラガラ」を自分自身で使って(操作して)育ってきた子どもは、通常の子どもたちより「好奇心が旺盛」で、チャレンジ精神が満ちあふれて育ってきているはずです。ですから、集団施設(幼稚園・保育所・こども園)に通い始めると、まず自分が悪戯や遊びを満足できるまで行うために、まず「根城(ねじろ、心の基地)」を探し出そうとしますから、園での環境はそれに応えられるものであることが必要です。子どもが身を隠せる場所、入り込んで悪戯でもできそうな場所などがそれです。逆に、余りにも整然と片づけられすぎている環境では、力を発揮できません。運動場に足跡が付くほど整地されていれば、足を踏み入れられないのと同じです。また、子どもたちが身を隠す場所のないのも考えものです。すべて白日の下にさらされているなら、ひっそりとした「秘め事」を楽しむことができず、子どもたちが時空間から自由になって、自分自身を主人公にすることが困難になるからです。子どもたちの「好奇心」はくすぐられません。「遊び心」に火が付かないのです。これは、「遊びの環境づくり」の視点の一つには欠かすことのできないことなのです。