4月2016

「高さ」で考える園環境

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@高層マンションimagesQ3J0W4YU「高所平気症」という言葉が最近よく聞かれるようになってきました。

「高所平気症」というものは、「高さに対して怖さを持たない状態にあること」を意味しています。これは、マンションで生活する子育て世帯の増加により、幼少期から高い場所で生活していて「高所」に恐怖心を抱かない「高所平気症」の子どもが増えています。またこのことにより、東京消防庁によりますと、同庁管内で発生した乳幼児の高所からの転落事故は、平成23~25年の間に65件発生しています。そのうち、52人が重症以上と診断されているのです。今年7月にも、東京都渋谷区のマンション1階にあるコンビニへ母親が出かけている途中、そのマンションの12階で留守番をしていた女児(4)=当時=がベランダから転落死する事故が発生しました。他にも、平成26年5月には、葛飾区のマンション10階のベランダから、4歳の男児が転落して死亡しました。このケースでも、母親は兄弟に忘れ物を届けるために1階に外出しており、部屋には男児と妹だけが残っていた状況でした。

このように、ベランダからの転落事故の多くは「子どもだけが室内に残っているとき」に発生していると考えられ、専門家も「子どもは、親がいなくなった不安に耐えられず、何とかして親を探そうとする。外に親がいると分かれば、ベランダからのぞきたくなってしまう」と警告しています。

こうした状況にマスコミがしきりに騒いでいるわけです。この「高所平気症」について、ある専門家は「興味のあるものがベランダの外にあれば、どんな恐ろしい行動でも取れるのが子どもの特性だ」と、注意を促す警鐘を鳴らしています。「高所平気症」の育ってくるのは、「高層マンションの一室などで育つことで、高いところが怖くないという『高所平気症』の子どもが増えている」。と福島学院大の織田正昭教授(福祉心理学)は指摘しています。高層マンション等では「地面」が見えないため、「高さ体験」ができないことが、「高さに対する恐怖体験」などを欠如してきたのが大きな原因のようです。

この社会問題は、高層マンション等では「地面が見えない」ため、「高さ体験」ができないことに起因しているわけです。そして、この「高度平気症」は、4歳になるまでに発症し、一旦「高所平気症」になると、直しにくいものです。

そこで、こうした生育環境で育った子どもたちに、幼稚園・保育所・認定こども園などの集団保育施設においては、どう対応したらよいのか、保育環境の面から考えてみます。

子どもが地面を見ながら、その対比で「高さ体験」できるには、ある程度の高さを持った環境物を考えればよいということになります。その「高さ」から、子どもが日常の自分の背丈とは違う体験をするわけなので、大げさにいえば、新しい「世界観」の獲得を行うとでもいえましょう。つまり、違ったアングル(角度)から世界を見るのです。これにより、日常の子どもの思考においても、「視野の違うアングル(角度)でものごとを考えるようになる」という願ってもいなかった、素晴らしい副産物(「自分独自の新しい創造的な新規の考え方))もついてくるようです。ちょうど、幼児教育の父である倉橋惣三が、「できるだけ自然のままで、草の多い丘があり、平地があり、木陰があり、くぼ地があり、段々があって、幼児が転んだり、走ったり、自由に遊ぶことができるようなところが良い。」「夏には木陰となり、冬は日光が十分当たるように落葉樹を植えると良い。」「幼児にはできるだけ自然の美しさに親しませたい。それには日当たりの良い運動場の一部を花畑、菜園として野菜や花を作り、それを愛育するように仕向ける」と、園庭に起伏を設けて「丘(高い場所)」にまで言及しています。当時は、「高層マンション」はなく、現在の状況をうかがい知る術はなかったわけですから、倉橋惣三としては、「環境に盛り込む教育意図」の話をしているわけですが、直感的に「園庭」が平面ではなく。「高さと起伏」ということを述べていたわけです。現代の幼児教育・保育に生きる私たちとしては、いまはもう亡き倉橋惣三の教育・保育精神を生かしつつも、さらなる「教育・保育意図」を持って、子どもの保育環境を考える必要があります。

「高さ」のある遊具といえば、「ジャングルジム」や「グローブジャングル」などの固定遊具を考えがちになりますが、「ブランコ」や「シーソー」といったものも瞬間的にではありますが、高さの違った世界を提供してくれます。そして、「めまい」や「抑揚感」も味わわせてくれます。でも、集団保育的に見れば、「順番を待つ」という好ましい側面があるにもかかわらず、逆に「人間関係」に「ボス」「従者」といった良くない人間関係が現れてくるものであることを心に留めて保言にあたる必要がありましょう。そうした「固定遊具」以外に、倉橋惣三も述べていた「土山」なども有効になるでしょう。子どもの背丈ほどもあれば、子どもの視点は、本来の「高さ」の2倍ほどにもなり、「高さ感覚」を育成するのは可能です。また、「地面」に足をつけて活動できるわけなので、最初に述べた「高度平気症」を防ぎ、「高さ体験」できる素晴らしい遊具であるといえましょう。そして何より、人まねでない「自分独自の新しい創造的な新規の考え方」を身に付けることになります。

組体操と運動会

運動会の組体操が、学校現場を震撼させている。最近のテレビニュースでも取り上げられていた。そこで、組体操をはじめとして、「運動会」全体を見直してみたい。

そもそも「運動会」は、その起源はヨーロッパにあるとされますが、欧米では体育およびスポーツの分化により、一方では特定種目の競技会やそれを複合させたスポーツ競技会、一方で子どもによる伝統的な遊戯まつりやピクニック会などへとつながって今日に至っています。

そのため、日本の運動会のように参加者が一定のプログラムについて順次全体としてまとまりながら競技・演技を行う形式の体育的行事は「近代日本独特の体育的行事」といわれます。日本に見られる行事形式の体育的催しは日本の他に台湾、朝鮮半島など日本統治時代から盛んになり存続しているのです。運動会が日本で行われだしたのは明治時代です。当初、運動会は「競闘遊戯会」「体操会」「体育大会」などと呼ばれていました。日本で最初に行われた運動会は定説によれば1874年3月21日、海軍兵学校で行われた競闘遊戯会が一番有力な説です。

1878年5月25日には札幌農学校で「力芸会」が開催され、わずか数年で北海道内の小中学校に広がったといわれています。その後、初代文部大臣・森有礼が体育の「集団訓練」を薦めるため学校で運動会を行うようになりました。日本統治を経験した韓国、北朝鮮、台湾や中国東北部の学校にも日本時代の名残で運動会が存在します。第二次世界大戦中は運動会の種目においても戦時色が強まり、騎馬戦・野試合・分列行進などが行われていましたが、戦争末期には食糧難から運動場が農地化するなどして実施が不可能となった所も多いようです。

小中学校の運動会は、もともとは「集団訓練」を目的とするものでした。最近になって、話題の「組体操」が現れてきました。ですから、「組体操」の目的は、表面的には「団結力をつける」というものが挙がってくるのです。しかし、民主主義の時代に変遷して、現代では、個人目標の「達成感を味わわせる」というものが付け加えられてきたのです。

しかし、全国的に骨折事故が多発し、大阪のある中学校では、ここ3年で7人が骨折していたことが明らかになりました。2014年度に公立小中学校で46件の骨折事故の起きた大阪市教育委員会は、2014年9月に、「ピラミッド」は5段まで、「肩の上に立って重なるタワー」は3段までに制限することを決めた。2015年9月、「ピラミッド」に高さの制限を設けました。日本スポーツ振興センターによると、全国の小中学校で、8000件以上の事故が起きました。骨折は、2000件を超えています。このように危険性の面からの検討は始まっていますが、教育目的上の検討は希薄と言わざるをえません。また、「運動会」それ自身の教育意義も充分には考えられていない状況です。

教育実践をするものとしては、「何故、運動会をするのか?」や「何の目的で行っているのか」の検討がなされて当然です。それは、ちょうど「組体操」が、「より高く、より見栄えのするものになった」ことを見直すことで、答のヒントが得られます。決して、「手段訓練」や「軍事教練」ではないはずです。教育現場では、教員たちはそのことは充分わかっているはずなのですが、今でも、その「見栄え」を教員同士、学校同士で教員が競い合うという要素があり、「見栄え」がよりよくなるために「ショー化」しき、さらにエスカレートしていったという経緯がありそうです。ここでは、子どもたちの教育目的以上に「ショー」を実現する世界が広がってしまったのではないでしょうか。ですから、通常いわれる「団結力をつける」の主語が教員になってしまっているので、「団結力をつけさせる」という妙なことになってしまっているのです。子どもたちは、「ショー」をする「サーカスのライオン」ではないはずです。もう一度、「運動会」全体を「子どもたち」に引きつけて考え、「運動会」を改善したいものです。「子どもたちが主人公、子どもたちが自分の意志で考え、行動する」ものへと・・・。「教員が子どもを号令一下そろえて団結させる」から「自分たち自身で力を合わせて・・・」へとかわった状況の中で、「運動会」全体もできるようにしたいものです。「運動会」は「ショー」ではないということを肝に念じておきたいものです。組体操10段崩れる瞬間 組体操10段

根城(ねじろ)教育論

「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」という言葉は、丸大ハムが1970年代にコマーシャルで使いました。登山にでかけた親子がたき火の横でむしるようにナイフでハムを切り、切ったハムをたき火にかけるというものでした。当時の流行語になったものです。この子どもを「わんぱく」に育てる秘訣を考えてみたいと思います。

幼稚園・保育所・こども園などの集団保育施設に通い始めた子どもに欠かせないものがあります。それが、「根城(ねじろ、a base (of operations))」です。「根城(ねじろ、a base (of operations))」とは、言い換えれば「心の基地」とでもいえるものです。周りの時間や空間から隔絶した状態で、自分自身の「思い」や「意図」を密やかに実現できるところです。子どもが初めて訪れた時に、「自分のやりたいこと」を行って、「しめた。面白かった。また、やりたい。(ある種の「成功体験」)」と心に刻めた場所です。ですから、そこへ行けば、「またやることができるぞ!」と密かに喜べて安心できるようになっているところです。ですから「心の基地」と述べたわけなのです。子どもたちは、「根城(心の基地)」を中核にして、場を拡大していきます。「これもやってみよう」「あれもやってみよう」「これを遣うとどうなるの?」「あれならどう?」というように、ひとつの「好奇心」から始まってさらなる「好奇心」へと心の世界も広げるのです。

ここで話はかわって、乳児の時期の寝返りを打つことができる以前の子どもを思い出してください。その頃、あなたのお子さんには、どのような遊具を与えていましたか?

高価な「ツリメリー」ですか、それとも廉価な「ガラガラ」でしたか。音が出て、目を楽しませてくれるという点では、同じような遊具のように思います。リッチな皆さんは、高価な「ツリメリー」だったかもしれません。でも、ここでは価格の高低で判断しないで、「心理的な」あるいは「行動形成的な」側面より考えてみたいと思います。

「ツリメリー」の操作は誰が行うのでしょうか?たいていの場合は、おとなである親が操作し動かすことが多いものです。すると成長の主人公である子どもはどのように楽しんでいるでしょうか?ツリメリーが楽しくなる音とともに、グルグルと回って目を和ませてくれます。でも、子どもの楽しみは受け身(観て楽しませてもらう)になります。

一方、「ガラガラ」ではどうでしょうか?おとなが「ガラガラ」を揺すって、楽しませてやることもあります。でも、違ったことも起こることがあります。枕元に偶然置いた「ガラガラ」にバタバタさせている子どもの手が偶然当たり、「ガラッ」と音が立つ場合があります。それをきっかけにして、子どもは「自分の手とガラガラの因果関係」に気づくことがあります。そして、まだ充分に使えない自分の手で「ガラガラ」を握って揺するという行為に挑んでみるようになります。そして、自分が揺すってみると、「ガラガラ」と自分の生み出した音を聴き、楽しめます。これは、一種の成功体験で、再度チャレンジし、また自分の生み出した音で楽しみながら、その因果関係を確実に認識するようになります。

このように考えてくると、廉価な「ガラガラ」ではありますが、高価な「ツリメリー」より勝る成長を子どもにもたらします。子どものこの体験のことを、昔ある学者が「世界を変えたという体験」と大げさに表現したことがありました。

さて、話を戻しましょう。「根城(ねじろ:心の基地)」の話です。幼い頃より上記の「ガラガラ」を自分自身で使って(操作して)育ってきた子どもは、通常の子どもたちより「好奇心が旺盛」で、チャレンジ精神が満ちあふれて育ってきているはずです。ですから、集団施設(幼稚園・保育所・こども園)に通い始めると、まず自分が悪戯や遊びを満足できるまで行うために、まず「根城(ねじろ、心の基地)」を探し出そうとしますから、園での環境はそれに応えられるものであることが必要です。子どもが身を隠せる場所、入り込んで悪戯でもできそうな場所などがそれです。逆に、余りにも整然と片づけられすぎている環境では、力を発揮できません。運動場に足跡が付くほど整地されていれば、足を踏み入れられないのと同じです。また、子どもたちが身を隠す場所のないのも考えものです。すべて白日の下にさらされているなら、ひっそりとした「秘め事」を楽しむことができず、子どもたちが時空間から自由になって、自分自身を主人公にすることが困難になるからです。子どもたちの「好奇心」はくすぐられません。「遊び心」に火が付かないのです。これは、「遊びの環境づくり」の視点の一つには欠かすことのできないことなのです。