低構造性の遊具

ガラクタとかリサイクルの物品は、一般的に、「低構造性の遊具」ということができます。これらが、子どもたちの成長に重要な位置を占めます。それは、遊び方や遊びの手順が決まっていないので、子どもたちの自由にまかせられている反面、子どもたちが、遊び方や遊びの手順を決めないと遊べないからです。その時点で、子どもたちは「意思決定」、「イメージ」や「工夫」を凝らして遊ぶことになります。

森  楙(もり しげる)は、その著書『遊びの原理に立つ教育』の中で、どんな種類のおもちゃが、子どもの遊びを発展させるかの答えとして「形や使いみちが決まってしまっている既製のおもちゃよりも、いろんなものに使える素材や材料のほうが望ましい」(森 楙著『遊びの原理に立つ教育』黎明書房、p.73)と結論づけています。構造性の高い、スイッチを押すだけで走り出すラジコンカーよりも、構造性の低い、工夫を必要とする素材的な材料なら、飽きることなく子どもは遊び続けるとしている。

いろんなものに使え、遊ぶために工夫が必要な素材や材料である「低構造性の遊具」に対して、「高構造性の遊具」とは、遊び方や遊びの手順が、予め決まっている遊具(ここでは、先のラジコンカー)を意味しています。「高構造性の遊具」で遊ぶ際には、子どもは自分で遊び方や遊びの手順を決めることがありません。もちろん、遊ぶために工夫することもないのです。それは、遊びを子どもが始める前に、予め「遊び方」や「遊びの手順」が決まっているので、子どもはそれらにしたがっているに過ぎないからです。「自分で遊び方や遊びの手順を決定する」ことがないのです。このことについては、倉橋惣三「恩物について」『幼稚園雑草』、『倉橋惣三選集』pp.198~pp.202)の中で、Gabe(「恩物」)のことばを理解するにあたり、「それはいうまでもなく原語通り(Gabe(恩物)をGabeとして研究しなければならない。またフレーベル先生の深い思想の籠もっているこの言葉に対して、道当なる敬意を払うことも忘れてはならない。しかし、それは昔のものを昔のーものとして貴重する研究上のことである。毎日の保育が始終古典によらなければなにしても、色板にしても、金輪にしても、箸にしても、いずれか持ちて遊ぶに面白き玩具ならざるである。しかのみならず、これらのものは決して必ずしもフレーベル先生によって、発明せられたものではない。その以前からどこにでもあったものである。別に何の本に書いてあるとか、どこの古丘から発掘せられたなどとむずかしい諭は持ち出さずとも、毬や板や棒切れが子供の玩具に用いられたことは、ギリシャの昔にもエジプトの昔にもあったことに相違ない。文明人ばかりではない。野蛮人の子供でもこのくらいの玩具は知っているだろうと思う。それが「フレーベル氏恩物」という名称の下に、いかにも特殊なるものとして取扱われているのは、何故なのであろうか。いうまでもなく、フレーペル先生がこれらの珍らしくもない玩具の中に、見出し、しかして組織した教育上の理論によるのである。すなわちその理論に対しての特殊なる取扱いをするのである。ここにおいて、いわゆる恩物の恩物たる所は、理論にあって、物にあるのではないということは、少しく事を分解して考え得る人には直ぐ分ることである。さらに言葉をかえていえば、恩物とは彼の品々が幼児の玩具として多くの有益なる点を持つというフレーベル先生の考えから、賞讃的に付けられ得る名称である。フレーベル先生の時代には、玩具の教育的価値に就ては、寓意か考案のあるものでなけれぱ、教育的でないもののように思われていた。そして、特別に貴い意味でもあるかのように取扱ったのである。しかも、フレーペル教育説を研究した人の知っておらるる通り、先生には物をむずかしく考え過ぎる論理癖があった。総てのものに臭の意味を付けようとする象徴癖があった。これは先生の偉大なる一面をなしたものでもあったが、また確かに一つの欠点でもあった。殊に幼児にとっては、理の勝ち過ぎるという極く不似合のものであった。しかして恩物という意味深長な(命名者にとって)名称も、この象徴癖から出来たものなのである。玩具は玩具でよろしいではないか。近世の児童研究は子快の遊戯の真意義を附聯して、遊戯という言葉の品位を高いものにしたと共に、玩具という言葉をも、昔のいわゆる「もてあそび」とは趣の異なったものたらしめた。椎しつめた理屈からいえば、世間でいう教育的玩具なる言葉が余計な語であるといってよい位、玩具そのものの本来性が教育的なものに理解せられて来たのである。かくのごとく玩具なる語の尊厳が認められている世に、幼稚園で用いるからとて、わざわざ別の名をつける必要は少しもない。モンテッソリー女史考案の保育玩具はイタリーの原語では何と呼ぱるるか知らないが、英語では Didactic materia1すなわち「教育用具」と訳されている。ところかおかしいことに、「モンテッソリーの恩物」という言葉が時々使われている。幼稚園では何もそんなに恩物という言葉を用いなければならぬものであろうか。今年の三市連合保育会の研究議題の中に、「三十恩物以外保育材料として現今使用せらるる恩物あらばその種類並びに使用方法を承りたし」というのがある。この意味は充分よく分ってもおり、また至極宥益な研究題であると思うが、ここにも恩物とい執着し過ぎておられる観がある。…(略)…恩物の言語Gabeにぱ恵まれたる物、すなわち天恵というこころがあるが、もし、そういう心からいうならば、木の葉、石ころ、すべての自然物程、真に天恵物であるものはない。そういう意昧でこの言葉を用いるならば、極く広い範囲にあらゆるものが恩物と言われるであろう。こういうといかにも、言葉の上の揚げ足取りのようであるが、余り恩物々々という言葉を口癖のように使わるるのを聞くと、こういう理屈もいって見たくなる訳である。余は嘗てフレーベル光生の恩物論を、余りに抽象的に、また象徴的であるという点から、甚しく批難したことがある。これ何も余の独創でもなんでもなく、発生的に幼児教育を行なわんとする人の皆一致する論でなければならない。余は今日においても勿論この批難を固持しているものである。しかし、余の批難したのは恩物諭であって、木片、棒片、そのものではない。あれは立派な玩具である。…(略)…恩物としてならば批難する。玩具としては賛成する。これが明白なる余の諭なのである。いっそ間違いの起らないように「恩物」という言粟を平常は使わないようにした方がよいかも知れない。それで、フレーベル先生の偉大さが少しでも傷つく訳ではなく、また尊敬すべきフレーペル先生も、却って地下にそれを喜ばるることと信ずるのである。」と述べて、自然の中にある「低構造性の遊具」こそが天恵のすばらしい玩具であるとしています。

ですから、子どもたちがいつでも自由に使える「低構造性の遊具(素材や材料、ファジーなおもちゃ)」が、保育環境に用意してある必要があるといえましょう。

この「いつでもどこでも自由に」という内容については、木下竹次がその著書『学習原論』の中で、学習室内の書物棚、図書室や理科室の事例を出して説明しています。「学習室内の書物棚は硝子戸棚とする必要はない。書物棚には戸のないほうが便利である。戸棚の価格も安くなる。…(略)…図書雑誌は購入には限らない。児童生徒・其の父兄・教師・一般の人から寄贈して貰ってもよろしい。小学校の教科書ごとき進級後はたいていは使用しないのだから、これを学校に寄贈させると、教科書の貸与制度も成立する上に、必要に応じてこれを利用するにも便宜がある。…(略)…図書と同様に器械、器具、標本、実物ももちろん学校管理者の方から購入して備えつけねばならぬが、むしろ教師用のものは教師から、児童生徒用のものは児童生徒からその購入を要求してのち備えつけることにすると一層効果がある。児童生徒から必要な器械、標本等を要求しうるように平素これらを観察し注意するようにしむけ、学校にはこれらの目録一覧表などを備えつけるがよろしい。かくのごとくに購入するのもよろしいが、それよりも師弟協同して製作、採取、蒐集することが必要である。理科の学習においても、…(略)…材料蒐集がなくては学習は不十分である。従来のこのごときことは多く教師のs仕事であったが、学習からするとこれらが大切なる学習活動である。器械標本等が平面的に備えつけられるよりも発展的に漸次完成に近づいていく方が学習上すこぶるおもしろい。(pp.116~pp.117)」としています。すなわち、「低構造性の遊具(素材や材料)」についても、子どもと保育者が一緒になって収集することが望ましく、また、収集したものを、子どもたち自身が、「いつでもどこでも自由に」扱えるように保育環境を整えておく必要があるといえましょう。