3月2016

低構造性の遊具

ガラクタとかリサイクルの物品は、一般的に、「低構造性の遊具」ということができます。これらが、子どもたちの成長に重要な位置を占めます。それは、遊び方や遊びの手順が決まっていないので、子どもたちの自由にまかせられている反面、子どもたちが、遊び方や遊びの手順を決めないと遊べないからです。その時点で、子どもたちは「意思決定」、「イメージ」や「工夫」を凝らして遊ぶことになります。

森  楙(もり しげる)は、その著書『遊びの原理に立つ教育』の中で、どんな種類のおもちゃが、子どもの遊びを発展させるかの答えとして「形や使いみちが決まってしまっている既製のおもちゃよりも、いろんなものに使える素材や材料のほうが望ましい」(森 楙著『遊びの原理に立つ教育』黎明書房、p.73)と結論づけています。構造性の高い、スイッチを押すだけで走り出すラジコンカーよりも、構造性の低い、工夫を必要とする素材的な材料なら、飽きることなく子どもは遊び続けるとしている。

いろんなものに使え、遊ぶために工夫が必要な素材や材料である「低構造性の遊具」に対して、「高構造性の遊具」とは、遊び方や遊びの手順が、予め決まっている遊具(ここでは、先のラジコンカー)を意味しています。「高構造性の遊具」で遊ぶ際には、子どもは自分で遊び方や遊びの手順を決めることがありません。もちろん、遊ぶために工夫することもないのです。それは、遊びを子どもが始める前に、予め「遊び方」や「遊びの手順」が決まっているので、子どもはそれらにしたがっているに過ぎないからです。「自分で遊び方や遊びの手順を決定する」ことがないのです。このことについては、倉橋惣三「恩物について」『幼稚園雑草』、『倉橋惣三選集』pp.198~pp.202)の中で、Gabe(「恩物」)のことばを理解するにあたり、「それはいうまでもなく原語通り(Gabe(恩物)をGabeとして研究しなければならない。またフレーベル先生の深い思想の籠もっているこの言葉に対して、道当なる敬意を払うことも忘れてはならない。しかし、それは昔のものを昔のーものとして貴重する研究上のことである。毎日の保育が始終古典によらなければなにしても、色板にしても、金輪にしても、箸にしても、いずれか持ちて遊ぶに面白き玩具ならざるである。しかのみならず、これらのものは決して必ずしもフレーベル先生によって、発明せられたものではない。その以前からどこにでもあったものである。別に何の本に書いてあるとか、どこの古丘から発掘せられたなどとむずかしい諭は持ち出さずとも、毬や板や棒切れが子供の玩具に用いられたことは、ギリシャの昔にもエジプトの昔にもあったことに相違ない。文明人ばかりではない。野蛮人の子供でもこのくらいの玩具は知っているだろうと思う。それが「フレーベル氏恩物」という名称の下に、いかにも特殊なるものとして取扱われているのは、何故なのであろうか。いうまでもなく、フレーペル先生がこれらの珍らしくもない玩具の中に、見出し、しかして組織した教育上の理論によるのである。すなわちその理論に対しての特殊なる取扱いをするのである。ここにおいて、いわゆる恩物の恩物たる所は、理論にあって、物にあるのではないということは、少しく事を分解して考え得る人には直ぐ分ることである。さらに言葉をかえていえば、恩物とは彼の品々が幼児の玩具として多くの有益なる点を持つというフレーベル先生の考えから、賞讃的に付けられ得る名称である。フレーベル先生の時代には、玩具の教育的価値に就ては、寓意か考案のあるものでなけれぱ、教育的でないもののように思われていた。そして、特別に貴い意味でもあるかのように取扱ったのである。しかも、フレーペル教育説を研究した人の知っておらるる通り、先生には物をむずかしく考え過ぎる論理癖があった。総てのものに臭の意味を付けようとする象徴癖があった。これは先生の偉大なる一面をなしたものでもあったが、また確かに一つの欠点でもあった。殊に幼児にとっては、理の勝ち過ぎるという極く不似合のものであった。しかして恩物という意味深長な(命名者にとって)名称も、この象徴癖から出来たものなのである。玩具は玩具でよろしいではないか。近世の児童研究は子快の遊戯の真意義を附聯して、遊戯という言葉の品位を高いものにしたと共に、玩具という言葉をも、昔のいわゆる「もてあそび」とは趣の異なったものたらしめた。椎しつめた理屈からいえば、世間でいう教育的玩具なる言葉が余計な語であるといってよい位、玩具そのものの本来性が教育的なものに理解せられて来たのである。かくのごとく玩具なる語の尊厳が認められている世に、幼稚園で用いるからとて、わざわざ別の名をつける必要は少しもない。モンテッソリー女史考案の保育玩具はイタリーの原語では何と呼ぱるるか知らないが、英語では Didactic materia1すなわち「教育用具」と訳されている。ところかおかしいことに、「モンテッソリーの恩物」という言葉が時々使われている。幼稚園では何もそんなに恩物という言葉を用いなければならぬものであろうか。今年の三市連合保育会の研究議題の中に、「三十恩物以外保育材料として現今使用せらるる恩物あらばその種類並びに使用方法を承りたし」というのがある。この意味は充分よく分ってもおり、また至極宥益な研究題であると思うが、ここにも恩物とい執着し過ぎておられる観がある。…(略)…恩物の言語Gabeにぱ恵まれたる物、すなわち天恵というこころがあるが、もし、そういう心からいうならば、木の葉、石ころ、すべての自然物程、真に天恵物であるものはない。そういう意昧でこの言葉を用いるならば、極く広い範囲にあらゆるものが恩物と言われるであろう。こういうといかにも、言葉の上の揚げ足取りのようであるが、余り恩物々々という言葉を口癖のように使わるるのを聞くと、こういう理屈もいって見たくなる訳である。余は嘗てフレーベル光生の恩物論を、余りに抽象的に、また象徴的であるという点から、甚しく批難したことがある。これ何も余の独創でもなんでもなく、発生的に幼児教育を行なわんとする人の皆一致する論でなければならない。余は今日においても勿論この批難を固持しているものである。しかし、余の批難したのは恩物諭であって、木片、棒片、そのものではない。あれは立派な玩具である。…(略)…恩物としてならば批難する。玩具としては賛成する。これが明白なる余の諭なのである。いっそ間違いの起らないように「恩物」という言粟を平常は使わないようにした方がよいかも知れない。それで、フレーベル先生の偉大さが少しでも傷つく訳ではなく、また尊敬すべきフレーペル先生も、却って地下にそれを喜ばるることと信ずるのである。」と述べて、自然の中にある「低構造性の遊具」こそが天恵のすばらしい玩具であるとしています。

ですから、子どもたちがいつでも自由に使える「低構造性の遊具(素材や材料、ファジーなおもちゃ)」が、保育環境に用意してある必要があるといえましょう。

この「いつでもどこでも自由に」という内容については、木下竹次がその著書『学習原論』の中で、学習室内の書物棚、図書室や理科室の事例を出して説明しています。「学習室内の書物棚は硝子戸棚とする必要はない。書物棚には戸のないほうが便利である。戸棚の価格も安くなる。…(略)…図書雑誌は購入には限らない。児童生徒・其の父兄・教師・一般の人から寄贈して貰ってもよろしい。小学校の教科書ごとき進級後はたいていは使用しないのだから、これを学校に寄贈させると、教科書の貸与制度も成立する上に、必要に応じてこれを利用するにも便宜がある。…(略)…図書と同様に器械、器具、標本、実物ももちろん学校管理者の方から購入して備えつけねばならぬが、むしろ教師用のものは教師から、児童生徒用のものは児童生徒からその購入を要求してのち備えつけることにすると一層効果がある。児童生徒から必要な器械、標本等を要求しうるように平素これらを観察し注意するようにしむけ、学校にはこれらの目録一覧表などを備えつけるがよろしい。かくのごとくに購入するのもよろしいが、それよりも師弟協同して製作、採取、蒐集することが必要である。理科の学習においても、…(略)…材料蒐集がなくては学習は不十分である。従来のこのごときことは多く教師のs仕事であったが、学習からするとこれらが大切なる学習活動である。器械標本等が平面的に備えつけられるよりも発展的に漸次完成に近づいていく方が学習上すこぶるおもしろい。(pp.116~pp.117)」としています。すなわち、「低構造性の遊具(素材や材料)」についても、子どもと保育者が一緒になって収集することが望ましく、また、収集したものを、子どもたち自身が、「いつでもどこでも自由に」扱えるように保育環境を整えておく必要があるといえましょう。

「自由感」と「精進感」

精進感曾根靖雅(1906年12月10日~1995年10月2日。私の恩師)・木下竹次(1872年(明治5年)3月25日~1946年(昭和21年)2月14日。小学校教育の父、小学校教育における「生活科」「総合的な学習の時間」の理論的論拠、主著『学習原論』、私の恩師の恩師)が、倉橋惣三(1882年(明治15年)12月28日~1955年(昭和30年)4月21日。(幼稚園教育を中心とした)幼児教育の父、1947年(昭和22年)文部省の依頼で『保育要領』(現在の幼稚園教育要領、保育所保育指針、幼保連携型認定こども園教育・保育要領の雛型)作成、主著『幼稚園保育法眞諦』(後の『幼稚園真諦』))のいう「自由感」「精進感」についての考え方をとおして、「教育」についての思想の共通性を見い出したいと思います。

「精進」の辞書的な意味は、「熱中すること。懸命になること。必死になること。一心不乱に努力すること」となっている。仏教においては、「自分自身を真っ白にするために、身を清め修行に励むこと」です。

教育においては、倉橋惣三が彼の著書『幼稚園保育法眞諦(『幼稚園真諦』)』(1934年(昭和9年)7月30日、東洋圖書株式合資會社)の中において、「遊びの中での単なる「自由感」から「精進感」という「目的のある仕事へのまとまりを求める自然傾向」があるとしている。この倉橋惣三は、「生活を生活で生活へ」という有名なことばとして、「生活主義的自然観」を幼児(幼稚園)教育の論拠としている。これは、自然主義者のJ.J.ルソー、ならびにガーデン主義者のF.フレーベルの教育的思想を受け継いだものであることが明らかです。さらに倉橋惣三は、F.フレーベルより「子どもに学ぶ」ということも多分に吸収しています。つまり、子どもの存在そのもの、子どもの生活そのものを尊重している点で明らかなわけです。それが彼のいう「幼児をしてふさわしき幼稚園生活に生かしめよ」にあたります。そうした理論的論拠をもとに、彼の「誘導保育論」が展開していきます。

木下竹次においては、主著『学習原論』(1923年(大正12年)3月20日、目黒書店)において、J.J.ルソーの「自然主義教育観(自然に還れ)」に基づいた「プラグマティズム(実用主義、道具主義、実際主義)」による「指導性」を、「直接的方法」よりも「間接的方法」を重視します。そして「学習即生活」という考えにしたがって、「学習者である子どもが、生活から出発して生活によって、生活の向上を図るもの」としている点は、先に述べた倉橋惣三とまったく同じことを述べているといえましょう。この木下竹次が 1919年(大正8年)3月には奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)校長(今の学長)の野尻精一に懇望されて教授兼附属小学校主事(今の校長)に赴任していました。

1927年(昭和2年)9月27日に、曾根靖雅が訓導(今の教諭)として、木下竹次に招聘されて奈良高等女子師範学校附属小学校に着任(名訓導の清水甚吾(「自学・自習」そして「合科学習」に支えられた、作問を中心にして行った彼の算数科実践)、音楽教育の幾尾純(児童中心主義に立った音楽教育者)、河野伊三郎(1929年東京帝大数学科卒、理学博士。数学者)、千葉命吉(一切衝動皆満足論、教育者)、志垣寛(奈良女高師訓導を経て同文社に入り、雑誌「小学校」編集主任。1924年(大正13年)下中弥三郎、野口援太郎らと池袋児童の村小学校設立、主事(校長)を務め、「教育の世紀」を発行。機関誌「教育の世紀」を発行)、桜井祐男(のちの芦屋児童の村小学校の設立者、芸術教育者)、永田与三郎(東洋図書創業者)、藤本光晴(昭和期の国民保健体操創案者)等そうそうたるメンバーがそろっていました)した。曾根靖雅は、木下竹次『学習原論』『学習各論(上巻1926年(大正15年)刊、中巻1928年(昭和3年)刊、下巻1929年(昭和4年)刊)』に学び、実践を通じて「学習のメトーデ即評価の観点」をまとめ上げました。とくに、1928年(昭和3年)刊の『学習各論中巻』は、木下竹次が発刊前日に直々曾根靖雅に手渡されたという逸話があり、この『学習各論中巻』には、木下竹次から曾根靖雅が入手した記録(直筆)が残されています。曾根靖雅作成の「学習のメトーデ即評価の観点」には、子どもを教育するための方法とポイントがチェックリストとしてまとめられています。それによると、「M(メトーデ)1目的の自己設定・自発的能動的意欲」、「M2常に新たな発想着想」、「M3準備の自主自立」、「M12改善実行の熱意」、「M13専念追求集中の態度・誠実」、「M15自己の成長発展の吟味」等人間形成の教育(陶冶)のポイントが記載されています。とくにM13がこの「精進」に関連しているのです。ただ、その際にM1、2、3という自発性・能動性に関する項目は、先に述べた倉橋惣三のいう「子どもさながらの生活(遊び)」に発祥する「自由感」から「精進感」に展開する彼の教育思想の流れに共通している点は注目に値しています。したがって、「精進」ということを考えるにあたっては、「子ども(学習者)に何か(学習・遊び・生活・仕事等)をさせる」といった他律性を棄却し、「子ども(学習者)自らがする」という自律性に立脚する必要があるといえましょう。つまり、「精進」「自らする」中で実現できるわけです。決して、「精進」は人に「させられる」ものではありません。倉橋惣三は、この「自らする」ことの基本に立脚して、「子どものさながらの生活(遊び)」に始まる「誘導保育論」を作成したわけです。倉橋惣三は、よく「自由保育論者」であるというようにいわれますが、実はこの「精進感」を目指して指導が必要であると考えていたといえましょう。ですから、倉橋惣三は、別のところで、「一点の厳粛味」ということを述べているわけなのです。

倉橋惣三は、彼の主著『幼稚園保育法眞諦(『幼稚園真諦』)』(1934年(昭和9年)7月30日、東洋圖書株式合資會社)の第3編第2章「自由遊びから仕事へ」の中で述べている「精進感」を「何かある仕事をし通していきたいというだけの心」(p.96)と説明している通りである。そして、「私たちは―私たちよりえらい人々は―、非常に強い自由感と非常に強い精進感とで常に生活しているかもしれませんが、私たちのように、其の両方ともいい加減なのを、生活性の低い人間といいます―ところが、幼児の精進感はそうではありません。弱いなりに自由感から精進感に移って来ます。ですから自由遊びから仕事へという順序は、幼児として自然に起ることであります。」と説明している。現代でいうところの「生きる力」ということについて言及している訳なのです。つまり、子どもたちの自律的・自発的に行っている「遊び(生活)」の中で自然と起こる「自由感」から「精進感」の推移こそが、現代にも共通して、子どもたちに育てる必要のある「生きる力」であるといえよう。ここに振り返れば、曾根靖雅「学習のメトーデ即評価の観点」の指導が、子どもたちの「生きる力」を育てるものであると言い換えることができます。

子ども同士で育ちあい

子どもが、教師(保育者)の力を当てにせず、自分の力で育てるようになることは非常に喜ばしいことです。これから、「子どもの遊び」が何故大切なのかをみていくことにしましょう。このブログでは、底辺に「子どもの遊び」の大切さをちりばめています。回を追ってそのことに触れていきます。今回は、「子ども同士の遊び」の持っている教育的意義について触れてみたいと思います。

子ども同士で刺激しあって育てるようになることは、「乳幼児教育」の目指すところでもあります。でも、教師(保育者)は、子どもに本来備わっている能力を信頼できずに、「指導」してしまうことが多いものです。たとえば、「遊び」に加わり、仲間で遊ぶことが良いと教師(保育者)が思い込んでいる時に、よく「遊びに入れて(よして)、と言わなくっちゃいけないよ」等と言ってしまいがちです。倉橋惣三も「一点の厳粛味」という言葉を通して、子どもに対する「保育者の心構え」と「保育者の指導」について述べていますが、上記の例のような「指導」を意味しているわけではありません。この倉橋惣三の「一点の厳粛味」については、次回以降に述べたいと思いますが、今回は子ども同士の「遊び」の誕生場面を通じて、子どもの「さながらの遊び」の姿をあ味わい、具体的な事例の場面から、その意味と指導について学んでみたいと思います。

まだ充分に友だちと一緒に遊べないと思われるような子どもが、他児を目にしながら、しきりに壁にプレートを押し当てて、しばらくじっとしていて、「チン、美味しいケーキができあがりました。どうぞ、食べてください。」と突然、他児に働きかけることがあります。そうすると、そう言われた他児が「いただきまーす。」と言って、食べるまねをするというようなことに出くわすことがよくあります。これは、まさに友だちとの遊びの初めての成立過程です。他児も壁の同じ部分に押し当てて、「チン、アイスクリームができました。」と続けます。この時には、この二人の間には、すでに「壁」を電子レンジに「見立て」て、できあがったものについてのイメージを共有しているのです。ごっこ遊び等、友だちとの遊びに必要な「みたて」「みなし」「ふり」などのイメージを媒体にした能力を獲得しているのです。ですから、保育者がよく言う台詞(セリフ)である「(遊びに)よしてほしい時は、「よして」と言いなさいよ」というものは必要ないばかりか、子ども同士の育ち合いの実際を妨げることすらあるといえましょう。子どもたちに必要なのは、言葉だけでなく、体験を伴った子ども同士の関係そのものなのです。

つまりこの時点においては、「社会的微笑み」から「いないいないばぁ」などで芽生えるようになった「期待」「(結果の)予想」「予期したことの安堵(確認)」といった乳児期からの精神的な育ちを、幼児期になってより複雑なものとして、精緻な形に育っているということになります。これらは、多分に他者(他の子どもや保育者)との関係の中で育っていくものです。これが、ここでいう「子ども同士の育ち合い」ということになるのです。「3歳になったら幼稚園」という標語は、子どもたちの成長の必要性(他者との関わりが活発になり、その中で子どもたちが「子ども同士で育ち合う」)という成長の節目であることを述べたものなのです。倉橋惣三のいう「一点の厳粛味」は、ここに隠されている大切な保育者としての「心構え」なのです。「自発協同学習」の大切さも倉橋惣三と同次元でチェックするべきものなのです。