遊びは自分自身の表現

「遊びは自分自身の表現」という言い方は、「子どもの遊び」が「子ども自身の内部にある(秘めている)ものの表現」である、という意味合いです。この「内部」の「表現」は、F.フレーベルによって、「幼年期において人間の発達上、最高の働きを為す者は遊戯である。なぜ遊戯が最高の働きであるかといえば、遊戯においては、児童は内部の必要に応じて、自ら自由に活動して、内部的本質を外部に現すからである。(「フレーベル氏 人之教育」 原田助校閲ハウ女子編 1917年 初版1909年 警鐘社書店 )」と、述べられています。すなわち、F.フレーベルの定義になっているわけです。この「内部」の「表現」ということについては、倉橋惣三もその定義を用いながら、「製作」という当時としては新しい考え方をかつて打ち出しました。奇しくもそれは、彼の死後の1956年(昭和31年)に文部省の出した新しい6領域という形で、保育内容の一つ(「領域 絵画製作」)となりました。

これはそもそも、東京女子高等師範学校附属幼稚園初代主事(園長)の関信三によって、『幼稚園法二十遊嬉』(F.フレーベル作、関信三纂輯(編集)、1879年(明治12年3月17日版権免許、東京書肆靑山堂)という編纂書の形で、F.フレーベルの「恩物」(「恩物」(独語のdie Gabe、神からの賜り物の意から、関信三により「恩物」と訳された造語です。これ以外にも、たの人物による幾通りかの翻訳が存在していました)は、F.フレーベルによって、作成されましたが、同書の流布が「二十恩物」としての恩物理解を促したであろうことは疑い得ません。日本の保育界では、F.フレーベルの教育思想というよりも、「恩物の操作」自身が「保育」であるということが一人歩きしてしまいます)

この20種の取扱説明にあたるものが纂輯(編集)・発刊されて以来、またたく間に日本中に拡がり、永きにわたって生き続けてしまいました。つまり、「恩物の操作」自身が「保育」であるという間違った認識が日本中に広がってしまったのです。倉橋惣三も「保育項目」の中に「・・・等」という記述があったことで、保育項目(保育内容)が「手技」に限定されないという意味で一応評価した『幼稚園令』(1926年(大正15年))でさえ、「保育項目」(保育内容)の一つの「手技」の中に内包(「手技」の主な活動は、「恩物」の操作である)されていました。その過ちを正した上で、フレーベル主義の恩物使用の固定化やフレーベル主義者の教条主義、倉橋の言葉で言えば「フレーベリアン・オルソドキシー」(恩物理論の裏付けを欠いた使用法のみの普及に偏った方法のみのもの)に疑問を抱き、F.フレーベルの本来の教育思想を普及させるべく、倉橋惣三は「製作」という言葉を使用します。そこで倉橋は、F.フレーベルが「遊び」の定義としていた「内なるものを外へ現すもの」という定義(F.フレーベルの『「遊戯」の定義(『人之教育』(原田助校閲、ハウ女史編、1917年(大正6年、警鐘社書店。この書による訳では、「内部的本質を外部に現す」となっている)、この「製作」という言葉は、その後、1956年(昭和31年)の「幼稚園教育要領」の保育内容の6領域の中に「絵画製作」という領域として成立していきます。倉橋惣三は、その結実をみる前年の1955年(昭和30年)の4月にこの世を去ってしまいます)

倉橋惣三は、この「製作」という言葉で「手技」を言い換えた言葉を使ったことは、倉橋が、保育界で1879年(明治12年)以来、長年に亘り定着してしまっていた「恩物の操作」を「保育」とすることを正すために、「手技」という「保育項目」に代わる物を提示したといえます。こうした倉橋惣三の働きによって、「手技」という言葉は、保育界からは徐々に消えていくことに繋がっていきます。倉橋惣三の長年に亘る思いは、ここに結実されたといえるでしょうそうした角度から今一度、「遊びは自分自身の表現」を見直したいものです。