自ら育む

「自ら育む」ということばの主語は、当然子どもです。子ども自身が自分自身の力で自分自身を育んでいくというということになります。こうした考え方は、倉橋惣三(1882年(明治15年)12月28日~1955年(昭和30年) 4月21日、大正・昭和期の幼児教育の研究実践家)の言葉を借りれば、「「育ての心」とは何か。それは、自ら育とうとするもの(子ども)を育てずにはいられなくなる心である。その心によって、子どもと保育者・親とはつながることができ、子どもだけでなく保育者・親も育つことができる。子どもを信頼・尊重し、発達を実現させることもできる。この心は、職務として現れるものではなく、義務として現れるものでもない。自然なものである。」(『育ての心』(1936年)の前書き)と言っていることに立脚したものになります。幼児教育者としては、無意識に近い形でこのように考えてしまうのです。言い換えれば、J.J.ルソーやF.フレーベルといった教育先達者のこうした考え方がベースにあるということにもなります。

さて、倉橋惣三にとっては、「子ども」とは「自ら育とうとするもの」だったわけです。子どもに全幅の信頼を寄せている点が倉橋の特徴でもあります。この『育ての心』においては、保育者(親)の働きは、「育てずにはいられなくなる心である。その心によって、子どもと保育者・親とはつながることができ、子どもだけでなく保育者・親も育つことができる。」と締めくくっています。彼の墓碑にも、この『育ての心』(1936年)の冒頭の一節「自ら育つものを育たせようとする心 それが育ての心である 世の中にこんな楽しい心があろうか(『育ての心』(1936年)序文冒頭文)」が彫り込まれています。子どもは、「自ら育つもの」と表現されています。これらは、倉橋惣三が、J.J.ルソーの「自然主義教育論」に立っているともいえます。このJ.J.ルソーは、性善説(人は生まれながらに「善」であるという立場)に立っていました。それで、あの有名な「自然(しぜん)に還(かえ)れ」(社会の因襲による悪影響から脱し、人間本来の自然の状態に還れという、(思想史的に考えれば、当時猛威を振るっていた「王権神授説」に対抗するために、極めて慎重な議論を歩み進めた『人間不平等起源論』『社会契約論』)という有名な言葉を残した人です。この「自然」とは、けっして「大自然」とか「田園や田舎」とか懐かしい「良き昔」等を意味しているわけではありません。「自然」とは、「子どもは生まれつき「善」である(性善説)のだから、生きていく内に社会の「悪」に染まったおとなが、子どもに「悪」を教え込んで「悪」に導くことなかれ」という意味を持っています。さらに言えば、「おとなの教育(干渉)のないところで子どもを育てましょう」という意味も付加されているのです。その意味合いを学んだ倉橋惣三が「自ら育つ存在」として、子どもを位置づけているのです。また、倉橋惣三の「誘導保育論」は子どもの「さながらの生活」から始まっているわけです。子どもたちの自発的・自主的・主体的活動をとても大切にする理由は、この点にあります。

この倉橋惣三は、1948年(昭和23年)に当時の文部省の依頼で「保育要領」を作成しました。この「保育要領」は、幼稚園の教諭だけでなく、保育所の保母(保育士)や家庭にいる母親に向けた異質なものでした。学校教育法によって位置づけられ,指導を行う者も「教諭」として規定されています。「保育要領」では保育内容は、見学、リズム、休息、自由遊び、音楽、お話、絵画、製作、自然観察、ごっこ遊び、劇遊び、人形芝居、健康保育、年中行事とされ,子どもの興味・自発性が尊重されました。この「年中行事」に引っ張られた形で今現在もさまざまな年中行事が行われていますが、これらについては、現代の幼児教育・保育に携わる私たちとしては、再吟味する必要がありそうです。

その「保育要領」も1956年(昭和31年)、小学校教育との一貫性をもたせるなどの理由から、全面的に改訂され、名称も「幼稚園教育要領」となります。保育内容は健康、社会、自然、言語、音楽リズム、絵画製作の「6領域」に改められました。そこから、さらに5領域に改められたのは、まだ記憶に新しいことです・

したがって、倉橋惣三という方をご存じなくとも、現在「告示」(法律用語で、「これに従って幼児教育・保育をしなければならない」、ということになり、法的規制力(義務)があるわけです)されている「幼稚園教育要領」、「保育所保育指針」、「幼保連携型認定こども園教育保育要領」は、倉橋惣三が作成した「保育要領」が雛形になっていますから、幼稚園や保育所、認定こども園での教育に今現在携わっている方ならば、倉橋惣三に間接的に、あるいは知らず知らずのうちに出会っていることになります。