3月11日

この日のことは 一日過ぎてから書きたいと思いました。

昨日 朝洗面所で 「3月11日はめっちゃ出張あるんだね…」と高校2年の娘に言われドキッとしました。

5年前の3月11日も前日から全日本私立幼稚園連合会の会議があって東京に出張しており その会議の閉会の挨拶の最中にあの地震がおきました。その後 都市機能が完全にマヒした東京は異様な光景が翌朝までつづき私も帰宅困難者の一人となっていました。

日が変わってから地下鉄が順次運行を再開したので 羽田空港に近づくために まず地下鉄で有楽町まで移動して 大勢の人が待機していた東京フォーラムの屋内の片隅で時間を過ごし 思い切って屋外に出てタクシーを探し回り やっとの思いで明け方の5時ころにターミナルビルに人があふれかえる羽田空港にたどりつきました。

運良く運行を再開した千歳空港行きの飛行機に乗ることができ12日には帰宅することができました。

しかし その間 連絡がとれない状態が続いたので 家族には大きな心配や不安があったのでしょう。当時 小学校の卒業式をひかえていた冒頭の娘の言葉にそのことがあらわれているように感じました。

当時 私は公益社団法人全日本私立幼稚園幼児教育研究機構の研究研修委員長をしていたので会議や文部科学省の委託研究などの打ち合わせで毎週のように東京に出かけていました。あの時も三日後の月曜日には完全に海水がひいていない三陸や宮城の海岸線を上空から確認し 福島第一原発の真上を南下して(その後航路は西側に移動しましたが)東京に行きました。

その後 一年ほどの東京は電車の車内の電気は消され コンビニエンスストアーを含め商業施設や公の施設も薄暗い中で営業や仕事をしている いまでは想像することが難しいほどに異常な状態がつづきその光景は異様でした。

ここ数日で東北三県のことは伝えられますが あの時は東日本全体が確かに被災地であった事実はどこにいってしまったのでしょう…。教訓とし語り継ぐべきことはたくさんあると思うのですが…。いま 東京に行っても当時の痕跡をみつけることは難しいです。(震災でまがっていた東京タワーの頂上部のアンテナも綺麗に修復されたし…)

その後 文科省の委託研究調査や記録映画の撮影などのために 被災三県 とくに津波による被害が甚大な地域を現地調査させていただく機会を得ました。そのことは 文科省の調査報告や記録映画の完成というかたちにはなっていますが あまりに重たい事実に向き合ってきたので 私の中では未だに十分に消化されていません。自分のことばであらわすことができるのが いつになるのかまだ私自身わからずにいます。

ただ 現地の保育者の 震災時・震災後の在りようや言動に 大きな衝撃と人間としての共感と深い学びを得たことは間違いありません。そのことは 日々の保育の中で大切にいかしてゆきたいと思います。

【園長 東 重満】